第8話 死ぬまでに……。

 僕は夏見の忘れた鞄を家に持ち帰っていた。夏見の家がどこにあるのかなんか知らない。きっと忘れたことに気づいて、戻ってくるだろう。僕はそう思い、鞄を玄関に置いておく。と、鞄のファスナーが開いていることに気づいた。


「だらしないな、まったく」


 ファスナーを閉めようとしたが、ふと鞄の中の手帳に気づいた。

 ……よせ、他人のしかも女の子の私物だぞ……。

 だが僕の手は、手帳に伸びる。手帳の表紙には手書きの文字。


『死ぬまでにやりたいこと!』


 ぱらぱらとページをめくっていく。文字がびっしり書かれていた。


「は、これ全部……? どんだけ……」


 そこまで声に出し、僕は口をつぐんだ。一生のほとんどを病院で過ごしてきた彼女。食べたくても食べれなかったもの。行きたくても行けなかったとこ。きっと、僕よりずっと多いんだ。

 やりたいことのほとんどに線が引かれている。やり遂げたのだろうか。最後の方にくるとようやく、まだ線が引かれていない文字にたどり着く。それは……。


『好きな人に告白する』

『自殺する』


 ──ピンポーン


 僕は我に返り、急いで手帳を鞄に戻した。そしてゆっくりドアを開ける。爽やかな汗をかき、少し焦った様子の夏見は、恥ずかしそうに言った。


「鞄、忘れちゃった」

「あ、ああ……」


 僕は鞄を渡す。言おうか、言うまいか。


「じゃあね、湊」

「あ……」

「……?」

「……いや、ま、また明日」


 結局何も言えずに僕は夏見と別れた。


✳︎


 台本が決まってから毎日、文化祭の準備をする僕たち。演技班、機材班、小道具班に分かれ、準備を進めていた。台本の作者である僕は監督兼小道具班となり、他よりも忙しい日々を送っていた。

 この日僕は夏見に手伝ってもらい、学校に残って図書館で資料集めをしていた。一通り本を取ると、夏見は僕の隣に座り、本を読み始めた。

 外は土砂降り。図書館が静かなせいで嫌に大きく聞こえる。なかなか集中できない僕は、本を読みながら夏見をちらりと見る。手帳の言葉が頭に張りついて離れない。


「君が死ねば世界は幸せだ」


 僕は思わずそう言葉を放った。心臓の鼓動以外何も聞こえない。夏見は首をかしげる。


「何よ、私に死ねって言うの?」


 その言葉とは裏腹に、笑顔な彼女。その笑顔に僕は少しばかりの落ち着きを取り戻した。


「最近読んだ小説でね、登場人物が問うんだ。『君が死ねば世界は幸せだ。……さあ、どうする?』って。君ならどうする?」


 夏見は茶色い長髪を弄りながら答えた。


「私なら死なないわ」


 夏見ならそう答えるだろうとは思っていた。夏見は楽観的だからな。


「なんで?」

「私が今死んだら私は幸せじゃないもの。それで世界が幸せになったって、虚しいだけじゃない。それに……」


 夏見の視線が僕の足に移っていくのがわかった。


「キミのお世話をずっとしていたいもの」


 ああ、と僕も自分の足に目を落とした。夏見はふふっと笑う。


「湊って鈍感よね。やっぱり、小説家は無理かな。だってこんな言い回しも分かってないんだもの」


 と、夏見は僕に顔を近づけた。


「あのね私、湊のこと好──」


 僕は咄嗟に夏見の口を手で塞いでいた。まるで時が止まったかの様な静寂。呼吸も、心音も、雨音でさえも、僕には聞こえなかった。夏見は何かに気づいたように、僕の手をゆっくりとった。


「やっぱり、手帳見たんだ」

「……こ、告白したら自殺するんでしょ?」


 夏見は深く椅子に腰掛けると、ふぅとため息をついた。


「私はね、病気で死にたくないの。神様の思い通り、みたいに感じちゃって。こう見えてね、ひねくれてるのよ。反抗期? ふふっ。……病気で死ぬんだったら、それが天に決められた寿命だと言うのなら、私は自分で自分の力で命を終わらせたい。自分の最期を、自分で決めたい」


 夏見は立ち上がり、僕に歯を見せて笑った。


「神様もびっくり仰天。やってやったぞ、ってね!」


 夏見の瞳に浮かんだ涙。それを隠すように夏見は、急いで荷物をまとめた。


「ご、ごめん。先帰るね!」


 走り去る夏見の後ろ姿を見つめながら、動かない膝をさする。そして、静かにぽつり。


「誰が本を片付けられるんだよ」


 雨はすぐに上がり、さっきまでの雨が嘘のような青空だった。流れる雲を見つめながら、ゆっくり車椅子を漕いで帰る僕。今日は風のせいで雲の方が速い。

 ゆったりと命について考える。夏見の考えも悪くないような気がしてきた。余命が尽きる前に自殺。安楽死と変わらないじゃないか。苦しくならないようにするために……。


 ──ぽたっ


 膝の上に落ちた雫。ふと、空を見上げた。透き通るほどに真っ青な空。


「……なんだ、天気雨か」


 空を悠々と泳ぐ雨雲など見えないフリをし、僕はゆったりと車椅子を漕ぎ続けた。

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