第13話 冷え込んだ公園
比較的暖かった昼間とは違い、防寒具なしでは外に居られない程に冷え込んだ夕暮れ時。俺は授業を終えて帰路に着いた二人の生徒たちに手を振った後、荷物を纏めて早々に塾を後にした。
急いでいる理由はといえば、先程通信端末にセレーナから連絡が入り、調味料を幾つか買ってきてほしいとお願いされたからである。陽が出ている時間が少なく、夜は昼間以上に冷え込むため、食材やら調味料を売っている店は大抵午後六時前後に店仕舞いをしてしまうのだ。そのため、氷で覆われた道を滑って転ばないように気を付けながら、それなりに急いで店に向かっているわけ。急げばものの数分で到着できるので、何とか閉店までに必要なものを買いそろえたいところ。
「流石に、まだやっていたか」
前方に目的の店が見えて安堵する。店にはまだ明かりが灯っており、店の扉から客がの入退店が繰り返されている。まだ時間に余裕はあるし、頼まれたもの以外にも酒のお供になりそうなものを幾つか買っていこう。
そんなことを考えながら小さな遊具が並ぶ公園の前を通った時、俺は不意に視界に入ったものに、足を止めた。
「あれは……」
視線を向けた先に居た人物を見た俺は思わず声を上げ、やれやれと首を振り、その場を後にし店の中に入った。
◇
「……飛び出しちゃったなぁ」
肌の温度を急速に奪う冷たい空気が広がる公園のベンチで、私はジッと下を見たまま一時間以上動かないままだった。動かないというよりは、動く気力が湧いてこない。心に汚泥が蓄積したみたいで、何か行動を起こしたいと思うことすらない。こんなことなら、お父様のお願いを聞いてお母様に会わずに、皆がいる塾に行けばよかった。そうしていたら、こんな気持ちになったりしなかったのに……。
「本当、心弱いなぁ……私」
昔から、全く直らないや。何をやろうにも、まずは失敗した時のことを考えたり、周囲の人に迷惑がかからないかを考えてしまう。しかも、一度考え始めたらどんどん沼にはまって行って、最終的にはやらない方がいい、と自分自身で決めつけてしまう。
ソテラ先生の塾に通って、皆と一緒に勉強して、凄い魔法士にしてあげると言って貰えたのに……私自身が期待に応えられる気が全くしない。本当に駄目だなぁ……私なんかが努力したところで、結果なんてついてこない。だから、きっと、お母様は一生私のことを──視界の端に、私のものではない靴が映った。
「いつにもましてネガティブになってるな、カルミラ」
鼓膜を揺らした男性の声に、私は勢いよく顔を上げる。どうしてここに? という疑問を抱きつつも、本の微かに心が軽くなった気がした。心の内を、悩みを聞いてくれる人が来てくれて、心底嬉しい気持ちになった。
「ソテラ先生……」
「悩み相談なら幾らでも聞いてやる。それより、寒いだろ? ココアでも飲んで身体を温めな」
◇
俺は店で買って来た熱いココアの入った紙コップをカルミラに手渡し、彼女の横に腰を下ろした。俺は甘い飲み物が好きではないので、何も入っていないブラックコーヒーを啜って身体を温める。
「防寒具を着ているとはいえ、この寒さで長時間外にいたら絶対に風邪を引くからな?」
「は、はい。わかっています、けど……今は、その」
「家に帰りたくないって感じだな。何があったのかは、まぁ想像できる。お母さんに会って来たんだろ?」
無言で頷いたカルミラは、ポツポツと小さな声で話し始めた。
「本当は会うつもりはなかったんですけど、お父様から会ってほしいとお願いされたので……」
「レナンス中将の頼みで、か。だけど、うまくいかずに飛び出してきてしまったわけか」
「……これ以上、あの人の前にはいられませんでした」
ココアの入った紙コップを握る手に力が加わり、紙コップは微かに変形する。それは無意識の行動だったらしく、彼女は一瞬「あ」と慌て、中身が零れていないことに安堵していた。
そして、続ける。
「お母様は、常に私に近づかないよう気を付けていました。同じ部屋にいる間も、一度たりとも私を見ようともしませんでした。挙句の果てに、「貴女を娘と思うことはできない」って……」
カルミラの双眸から涙が零れ、数滴の雫は彼女の手に落ちていく。
彼女が極端にネガティブ思考、且つ自分に自信が全く持てない消極的な性格になったのは、その母親が原因だと、以前カルミラの父君から聞いている。母親から注がれるはずの愛情を一切貰えず、姿を見ることすらほとんどない。
自らに愛を与えてくれない母親に、カルミラ自身は原因が自分にある。自分が悪い子だからいけないんだ、と考えるようになってしまった。その結果、自分に自信を持つことができない今のカルミラになった、と。
だが、彼女の母親はカルミラことが嫌いなのではない。
彼女のことが、怖いのだ。
「感情連動性暴発体質に理解がないっていうのは、致命的だな。恐らく、カルミラの母親は、お前と触れ合うことで暴発のキーになる感情を刺激してしまうのではないか、と恐れている。そうなれば、少なくとも近くにいる者は全員死ぬからな」
「……やっぱり、私が悪いんですよ。こんな体質で生まれてしまった、私が……」
カルミラは自嘲気味に自己嫌悪の言葉を連ね始めた。
十四歳で多感な時期の少女には、かなり心にダメージが来ることだろう。理解者である母親から恐怖心を向けられるのは、辛いはずだ。残念ながら俺にその気持ちを理解することはできないが、きっと、今のカルミラの心は傷だらけだろう。それくらいは、理解はできなくても予想はできる。
そして、今の俺は軍人ではなく彼女の、彼女たちの先生だ。
教育者は勉学を教えることだけが仕事ではない。時には心の支えになり、生徒の成長に助力することが、仕事でもあり使命でもある。
俺はカルミラの肩に手を置いた。
「悪いな、カルミラ」
「先生?」
「俺は子供頃から殺伐とした軍に身を置いていたから、今のお前の気持ちは理解できない。だから、慰めの言葉をかけてやることができない」
俺は常に誰かに畏怖と恐怖を抱かれていたし、親と呼べる者もいない。人の気持ちを理解しないまま、わかるよ、などと軽薄な言葉を吐くことは侮辱に等しい行為だ。
だから、俺は正直にカルミラに告げる。
そのうえで、俺は俺のできることをするまでだろう。
ポケットの中から通信端末を取り出し、画面を操作した後、俺は耳元に当てた。
『──、久しぶりだな、ソテラ中尉』
「お久しぶりですね、レナンス中将。それと、俺は既に軍を抜けた身ですので、階級はありませんよ」
数回の呼び出し音の後に聞こえた男性の声は、何処か気疲れを感じているようにも聞こえた。相手は、俺が軍に居た頃に何度か世話になったレナンス中将──即ち、カルミラの父君だ。
『そうだったな。すまない、君が抜けてから半年が経ったが、未だに階級をつけて呼んでしまう』
「段々と慣れてくださいね」
『努力するよ。それで、用件は?』
「今、貴女の娘さんが隣にいます」
それを聞いたレナンス中将は一瞬言葉に詰まり、「……そうか」と呟いた。まさか、突然連絡してきた知人が自分の娘と一緒にいるとは、思わなかったのだろう。仮にも塾講師なので、家を飛び出したら俺のところに来るというのは想像できそうなものだが。
『突然飛び出してしまったので心配していたが、君が傍にいるのなら安心した。この街の治安は良好とはいえ、物騒な輩が皆無というわけではないからな』
「そうですね。特にこの時間帯からは危なくなります。ですが、どうやら娘さんはそちらの家に帰りたくないようでして」
『まぁ、そうだろうなぁ……』
悩まし気に唸るレナンス中将。端末越しだが、腕を組んで首を捻っている姿が容易に想像できる。特に、原因がそちら……彼の妻にあることは、十分に理解しているため、簡単に帰ってこいとも言えないのだろう。
……仕方ない。弱っている生徒を寒空の下に放置したままにしておくのは気が引ける。
「中将、よければ、カルミラは今晩うちで預かりますが」
「え?」
驚きの声を上げたのはカルミラだったが、それに構わず俺は続ける。
「一晩経てば、多少は気持ちも落ち着くでしょう」
『……娘に妙なことは──』
「すると思いますか? この俺が」
「いや、しない……というより無理だな。すまない、妙なことを言ったな」
俺とセレーナの関係を知っているレナンス中将はすぐに発言を撤回した。そもそもカルミラは十四歳の子供だ。俺が劣情を抱くには、まだ少し年齢が足りない。まぁ、既にその枠は独占されているんだがな。
『しかし、いいのか? 娘を任せるとは言ったが、何もそこまでする必要はないぞ?』
「俺がそう言わなければ、きっとカルミラは公園で一晩明かすと言い出しかねませんからね。この寒さでは、凍死してしまいます」
『……そうだな。今晩は、娘をよろしく頼むよ』
「はい。明日には、必ずそちらの家に帰しますので」
レナンス中将も、カルミラならきっとそうするとわかったようだ。その頑固さはきっと、父親である彼から引き継いだものだろう。
用件は済み、通信を切ろうとしたレナンス中将を、俺は少し待ってくれと言い引き留めた。まだ、伝えるべきことを言えていないのだ。
「中将、カルミラの母君……貴方の奥様は、カルミラのことを怖がっていましたね。彼女の体質に理解がなく、母親としてすべきことを全て放棄してきた、と」
『……あぁ。情けないが、その通りだ。何度も理解してくれと言い聞かせたが、聞く耳を持ってくれなくてな』
「その結果、カルミラは消極的且つ悲観的な考えを持つようになってしまったと。中将、この通信を終えたら、奥様に伝えていただけますか?」
俺は一拍の間を空け、口に笑みを浮かべて告げた。
「貴女が虐げた娘は、いずれ世界が一目置く魔法士に成長します。その時になって、母親面するんじゃねぇぞ、と」
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