第36話 「まさか」

-あんなに怖いことは初めてだった

 と、啓司さんが語ってくれた話。


 啓司さんは、会社とは電車で数十分の距離アパートで一人暮らしをしていた。行きも帰りもさほど混みはしないが、座ることはできないほどの乗車率。いつもつり革にぶら下がって、会社と家を行き来していた。


 ある日の帰りの電車でのことだ。啓司さんはなにか奇妙な視線を感じ、周りに目を巡らせた。

 すっと目を向けた先には、若い女性が立っていた。

 至って普通の女性。電車の中でまっすぐに立ってこちらを見ていた。

 

-なんだ、女か。


 啓司さんを見ていたわけではないんだろうと思い、また視点を戻した。しかし、ふと違和感に気づいた。

 立っている女。彼女はつり革に掴まることなく、まっすぐ突っ立っていた。


 さほど揺れはきつくないとは言え、電車の中だ。揺れは多少はある。つり革に掴まらないと流石にまっすぐには立てないはず。奇妙なその風景をもう一度確かめようと、そっと視線を向けた。

 女はやはりそこに立っており、そしてつり革には掴まっていなかった。啓司さんに気づいたのか、にっこりと笑った。どこか気味の悪い微笑みに、思わず目をそらした。


 やがて降りる駅につき、啓司さんはドアへ向かった。ふともう一度視線を向けると、女性は相変わらずこちらを見たまま降りる気配もしなかった。

 

-なんだったのだろうか


 駅から自宅までは徒歩で10分ほど。いつもより早足で向かう。

 T字路の突き当りにある、啓司さんが暮らすアパートが見え、どこかほっとした瞬間。

 

-!!


 T字路の角に、あの女が立っていた。

 ありえない。女は電車を降りなかったし、啓司さんより先にここに立っているのはどう考えてもおかしい。

 内心の同様を隠し、女を無視してアパートへ歩いた。部屋へ戻り、鍵とチェーンロックをかける。あの女は、窓から見える位置にいるはずだ。

 恐る恐るそっと窓から確認した。


-まさか、まだそこに立っているのでは……


 しかし、そこには誰もいなかった。よく似た誰かだったんだろう。

 そう安心した瞬間。


「まさかと思った?」

 

 明るい女の声が耳元で聞こえた。

 あまりの驚きに啓司さんは意識を失い、気づくと朝になっていた。

 

 その現象はそれっきりだという。




 

 

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