第19話 ずずっ
悠子さんは結婚10年目。念願かなって、ようやく新居を手にした。とはいっても中古住宅だが。夫の知り合いのつてを頼り、思った以上に安く購入することができたそうだ。
中は新築同様に整備されており、悠子さんはこれから始まる新しい生活への期待に胸を膨らませた。
それは夫の武雄さんも同様だった。武雄さんの趣味は日曜大工。これまでは小さい椅子やテーブルなどを作るだけだったが、壁に棚を取り付けたり、庭用のベンチを作るなど張り切っていたという。
「これで子どもでもいたらブランコを作るのも楽しいのにね」
悠子さんは言った。
「まぁ、そのうちできるさ。そのときは任せとけ。勉強机だってつくってやるよ」
武雄さんは道具を手入れしながら答える。
結婚して10年。子どもはすぐにでもほしかったが、なかなか授からなかった。病院にいって検査したものの、どちらに原因があるという様子もなく、不妊治療も薦められたが熟慮した結果自然に任せることにした。
悠子さんが新居に引っ越すことを喜んだのはもうひとつ理由があった。。結婚してすぐ入居した家に、モヤのような不思議な黒い影が時折現れていたのだ。それは決まった場所に現れれるわけではなく、ふと気付くとぼんやりと浮かび上がってくる。
武雄さんにも話したが、そういった怪奇現象を信じない彼は、気のせいだろう、の一言で片付けられていたという。
「カーテンの影かなにかがそう見えるんじゃないのか?」
「でも、居間の真ん中とかにもでるのよ」
「お前、霊感あったっけ? 俺はそういうの信じないけど」
「ないわよ、そんなの」
「じゃ、気のせいさ。目医者にでも行ったほう方がいいんじゃないか?」
武雄さんはそういって笑った。
眼科に行ったものの目には異常はなかった。影はただぼんやりと佇んでいるだけで取り立てて何かする様子もなく、次第に悠子さんはその現象に慣れていった。
そして10年目、新居に引っ越すことが決まったのだ。慣れた、とはいっても気分のよいものではなかった。引っ越したらきっとこの現象からは解放されるだろう。
悠子さんの新居への期待と喜びはまずそこにあったそうだ。
引っ越して1ヶ月。黒い影は現れなかった。やはり前の家に問題があったのだ。どういうことなのかは分からないが。
2人きりの穏やかな時をすごし、一年が過ぎた。
ある日、悠子さんが洗い物をしていると目の端になにかが浮かんだ。何気なくそちらに目をやる。
黒い影だ。
「え……また……?」
動揺する悠子さんの目の先でゆらゆらと影は揺れている。洗い物を手早く済ませ、逃げるように買い物に出かけ、帰ってくると影は消えていたという。
夜。
武雄さんが仕事から帰ってきた。
「ねえ、あなた……」
「どうした、顔色悪いぞ」
「昔、言ってた影がね、また出たの」
「またそれかよ。大丈夫だって、疲れてるんだよ」
「でも……」
「そんなに気になるんならさ、殺虫剤でもまいてやれよ」
「……まさか、そんなの効くかしら」
「やってみないと分かんないって。知らないけど」
「他人事だと思って……」
悠子さんは少し苛立ちながら武雄さんの食事の用意をした。
数日後。悠子さんが居間で掃除機をかけていたときのことだ。本棚の前に黒い影が現れた。掃除機をかける手をとめ、その影を見つめる。やはり前の家で見たものと同じもののようだ。
――一体全体なんなのよ
悠子さんはだんだん腹が立ってきた。なにか言いたいことでもあるのなら、とっとと言ってもらいたい。叶えてやれるかは分からないが、ただゆらゆら揺れていられるだけでは目障りで仕方がない。
そもそも武雄さんの態度もいかがなものか。「見える」と言っているのだから、もう少しまじめに聞いてもらいたい。結果、お祓いなどをすることになったとしても多少の金額なら払うことは容易なくらい蓄えはある。
苛立つ悠子さんの前で、影は悠子さんの意図を解することもなくただゆらゆらと揺れている。
――ああ! もう!
頭にきた悠子さんは影に向けて掃除機のノズルを向け、スイッチを入れた。
ずずっ
紙切れかなにかを吸い込むような音を立てて影は掃除機に吸い込まれた。後にはなにも残っていない。
「え? なに、もしかしてこれで解決とか?」
悠子さんは呆然とした。しばらくぽかん、としていた悠子さんだったが、掃除機から紙パックを取り出しビニール袋に放り込んだ。
――殺虫剤でもまいてやれよ
武雄さんの言葉をふいに思い出し、袋の中の紙パックに向けて殺虫剤を振りまき、しっかりと結んでゴミ箱に捨てた。
幸い次の日は燃えるごみの日だったので、朝一番でゴミ置き場に捨てにいった。
それ以来、黒い影は現れることはなくなったという。
悠子さんの妊娠が分かったのは、それから4ヵ月後のことのことだが、影と関係があるのかは分からないそうだ。
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