第18話 「話すな」
明美さんは今でも後悔していることがあるという。それは10年前、勤めていた会社でのことだ。
そのころの明美さんは入社5年目。仕事にも慣れ、周りの同僚や上司ともいい関係を築き、充実した日々を送っていたとのこと。
ある日のこと。
学生時代の友人と飲みに出かけた。会うのは数年ぶり。互いの近況や懐かしい話で盛り上がった。
しばらく飲んでいると1組の男女が腕を組んで店内に入ってきた。見慣れた顔だ。男性は明美さんの部署の課長、女性は明美さんより二つ上の先輩のAさん。それぞれ別に家庭を持っていて、子供もいるはずだ。2人はどう見ても親しげな様子。いわゆる男女の関係に見える。ただ単に職場の仲間として飲みにきた、という様子ではない。
薄いカーテン越しのため、向こうは明美さんに気付いていなかった。
「どうしたの?」
2人の様子を眺めていた明美さんに友人が言った。
「え、ええ、今入ってきた2人なんだけど……」
明美さんは事情を説明した。
「えー、それって不倫じゃないの。まずくない?」
「そうだよねぇ……」
「気付かれるとまずくない?」
「そうね、もう店出ましょ」
静かに店を出て、友人と別れたそうだ。
それからひとつきほど経った頃だろうか。同僚の女性と3人で昼食に出かけた。
他愛もない話を楽しんでいたところ、一人の女性が「そういえば、」と前置きして言った。大田さんだ。
「課長とAさんってなんだか雰囲気あやしくない?」
「え? あやしいってなによ」
別の女性が答える。
「んー、なんていうのかなぁ。仕事以外の意味で信頼関係がありそう、っていうか」
「やだ、なにそれ。気のせいじゃないの」
2人の話を聞き、明美さんはひとつき前のことを思い出した。
「そういえば……」
思わず明美さんは口にした。
「なになに、なによ」
「あ、えっと、なんでもない」
あわてて取り消そうとする明美さん。
「何かあるなら教えてよー、ここだけの話ってことで」
「んー……一ヶ月前くらいなんだけどね」
明美さんが話そうとしたときのことだ。
「話すな」
低く苦しげな声が明美さんの耳元で聞こえたという。
「え?」
思わず周囲を確認したが誰もいない。
「どうしたの? 一ヶ月前くらいがどうしたの?」
「ほんとにここだけの話にしてね。実は……」
明美さんは課長と先輩の話をしてしまった。
「やだ、それまずいじゃん」
「やっぱねー、あやしいと思ってたんだ」
大田さんが腕組みをしながら頷く。
「絶対ここだけの話にしてね」
明美さんは念を押して言った。
一週間後。
5つ年上の先輩、飯田さんが明美さんに話しかけてきた。
「課長とAさんの話したのって、あなたでしょ」
「え、ええ……」
「噂になってるわよ」
「え……」
「『ここだけの話』なんて言ってもね、人の口に戸は立てられないものよ」
「……」
「子供じゃないんだから、見たことをそのまま話すのはやめなさい」
「はい……」
明美さんは書類を整理していた大田さんに声をかけ、そっと廊下に出た。
「あの…課長の話なんだけど……」
「ごめん!ほかにもあやしいって言ってた子がいたもんだからさ」
大田さんはパン、と顔の前で手を合わせて言った。
「『ここだけの話』ってことで話したら噂になっちゃった」
「そんなぁ……」
明美さんは頭を抱えた。
数日のうちに話は上層部までいき、課長は別の部署へ事実上の左遷、Aさんは会社に居辛くなって退職した。うわさの出所が明美さんだということを知っていたのだろう。朝礼で退職のあいさつをしたAさんは、お辞儀をした後、明美さんを強い目で見つめた。
事は社内だけで済ますこととなり、課長とAさんはそれぞれ離婚することなく関係が終わったようだった。
2人の人間の人生を変えてしまった。確かに不倫関係は社会的によくないことではある。しかし、それを断罪する資格が自分にあっただろうか。明美さんは噂話として軽い気持ちで話した。それがこんなことになってしまった。
飯田さんが言ったとおり「子供じゃない」のだから、こういう結果が起こり得るということを自覚すべきだったと後悔したそうだ。
いつしか明美さんも会社に居づらくなり、Aさんが退職して3ヶ月ほど経った頃明美さんも退職した。
それから別の会社に勤め、そこで出会った男性と結婚した。
結婚して数年たったある夜のこと。明美さんは夢を見ていた。
あの日の昼食の場面だ。
明美さんは、過去の明美さんの後ろに立っていた。
――課長とAさんってなんだか雰囲気あやしくない?
大田さんが言う。その後の会話もあの日と同じだ
――んー……一ヶ月前くらいなんだけどね
夢の中の明美さんが言う。
――話しちゃいけない。それはだめ
声を出そうとするが苦しくてたまらない。やっとのことで声が出た。
「話すな」
明美さんは過去の明美さんの耳元でささやいた。
――えっ
周りを見渡す過去の明美さん。
――話しちゃいけないの、それはだめなの
懸命に伝えようとするが、あの日のとおり過去の明美さんは話してしまった。そこで目が覚めた。
嫌なじとっとした汗が体に纏わりついている。
――あの日のあの声は、私自身の声だったのか
その後も何度も同じ夢を見るが、未だに過去の明美さんを止められたことはないらしい。
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