第16話 マヨヒガ

 佐々木さんは山歩きが趣味とのこと。山歩きといっても、標高の高い山を登るわけでもなく、ただ単に山道を歩くだけ。頂上を目指さないことも多い。

 木々の間から漏れてくる光。

 濃密に漂う土の香り。

 どこからともなく聞こえてくる鳥の声。

 それを味わうことが、佐々木さんにとっての「山歩き」だ。


 ある日佐々木さんは、知人の家を訪ねた。高校時代以来の友人だ。友人は40歳にしてガンを患い、手の施しようもなく在宅で療養している。

 もしかしたら、これが最期になるかもしれない。そんな思いで訪ねたが、友人は聞いていたよりもずいぶん元気で笑顔で出迎えてくれた。

 懐かしい話をしていたが、あまり長くいても友人の身体に負担がかかるだろうと早めに辞去したとのこと。


 その帰り道。

 ふと道の脇を見るとゆるやかに山に伸びていく道を見つけた。時間はたっぷりある。山歩きに向いている服装ではないが、道の様子を見る限りではそんなに険しい山でもないだろう。無理だ、と思ったら引き返せばいいと思った佐々木さんはその道を進んでいった。

 

 思ったとおり、その道は山道というより散歩道といってもいいくらい緩やかなものだった。

 しっとりとぬれた空気が心地いい。

 差し込む光も優しく、居心地のいい道だ、と佐々木さんは思ったという。

 道端に置かれた地蔵も味わい深く苔むしている。

 

 難もなく山頂にたどり着いた。友人の住む町が眼下に見える。

 佐々木さんも友人も故郷を離れて久しい。友人の終の棲家となるであろう、と思うとその町の風景がいとおしくも見えた。

 知らない町だが、昔から知っているような。

 そんな錯覚を覚えるような風景だった。

 つまりはどこにでもある風景、ともいえるのだが。

 しばしの感傷にひたり、山頂からの風景を堪能したあと、佐々木さんは山道を降りていった。

 

 歩いて5分も経った頃だろうか。佐々木さんはふいに違和感を覚えたそうだ。 

 柔らかく差し込んでいた光が消え、どこか薄暗い。空気の湿度も少し濃密になってきている。

 雨でも降るのだろうか。山頂で空を仰いだときは、雲がちらほらと見えるほどの晴天で雨の気配は全くなかった。

 これはいったいどうしたことか。不安に駆られながら少し早歩きで山道を降りていった。先ほど見かけた地蔵が見える。さっきは優しく見えた地蔵の表情もこの状況においては少し不気味に感じた。

 ひたすら山道を降りる佐々木さん。

 そろそろさっきの山の入り口についてもいい頃のはずだがまだつかない。

 こんなに深い山だっただろうか、と不安になったという。山の湿度はいっそう濃密に感じるが、霧はかかっていない。

 こんな低い山で遭難はないだろうが、どうにも気味が悪く早く下山したい、と佐々木さんは思ったそうだ。 


 ふと佐々木さんの足が止まった。前方左側に見える石。あれは地蔵ではないだろうか。登ってきたとき、地蔵は1体しかなかったはずだ。

 疑問に思いながら近づく。

 やはり地蔵だった。

「どうなってるんだ……」

 足早にそこを立ち去り、更に下へと向かった。


 どれくらい経った頃だろうか。佐々木さんは自分の目を疑った。前方左側に石がある。逃げ出したい心を抑えて近づくと、やはり地蔵だった。

 どうみても同じ地蔵に見える。

 佐々木さんはそっと手を合わせ、地蔵にまとわりついた苔をすこし削って目印をつけた。


 再び下山。

 そして見えてくる石。

 近づいてみてみると、間違いなく佐々木さんが先ほどつけた目印がついていた。

「ひっ!!」

 佐々木さんは飛び退き、駆け出した。山道ではむやみに走ってはいけない。それはわかっているのだがこの状況から逃れたい一心で足は止まらない。

「あ!!」

 石につまずき、佐々木さんは転倒してしまった。手を突いたところに運悪く尖った石があり、手に傷を負ってしまった。手首もずきずきと痛く、捻挫か最悪骨にヒビでも入ったかもしれない様子だ。

 カバンからタオルを取り出し、手に巻く。じわり、と血がにじんできた。

 

  5回ほど地蔵を目にした頃だろうか、

 手首を庇いながら下山を続ける佐々木さんの目に、今までとは違ったものが映った。

 一本道だったはずだが、右に折れる道がある。これにはいると状況が変わるかもしれない。常識的に考えて、それはありえないのだが、既に現状自体常識的ではない。

 佐々木さんはその右の道に入っていった。


 10分ほど歩いたところ、突き当たりに家があった。古い木造建築の平屋建てだ。

 こんなところに家があることに違和感を抱き、しばし呆然とそれを眺めた。見たところ廃屋という風もなく、ある程度手入れされた家だ。誰かが住んでいるなら、傷の手当を頼もう、そう思いドアに近づいた。

 引き戸のそれは、チャイムがついていなかった。

 ドンドン、と叩く。

「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」

 しばらく待ったが返事がない。そっと扉に手をかけ開けてみると、すんなりと開いた。

「あのー! すみません!」

 大声で家の奥に声をかける。


 ――どうぞ


 奥のほうから声が聞こえた。

「申し訳ありません、怪我をしたので手当てをお願いできませんか!?」

 声に呼びかけるが、だれも姿を現さない。


 ――どうぞ

 

 また声が聞こえた。

「えーっと、おじゃましますねー」

 そういって佐々木さんは家に上がった。廊下を少し歩くと、左手に部屋がある。その部屋を覗くと卓袱台が置かれていた。卓袱台の上には3人分と思われる食事が置かれてある。湯気がたっており、つい今しがた用意されたもののようだ。

「あのー、どなたかいらっしゃいませんか?」


 まいったな、と思いつつ、家の中を探索する。しかし、人影はどこにもない。

 先ほどの「どうぞ」の声はどこから聞こえたのだろうか。

 家中をめぐったが、人のいた様子は先ほどの卓袱台以外にはなく、気味悪く思った佐々木さんはそそくさと家を出た。


 先ほどの山道に戻る。不安の中歩く佐々木さんだったが、今度はしっかり下山できた。手の血は止まったようだが、どうにも痛くて仕方がない。

 やむを得ず、友人の家に戻り怪我をした旨を伝えた。友人夫人はすぐに病院を紹介してくれた。

 手首は幸いただの捻挫で、骨に損傷はなかった。そのまま帰るつもりだったが、友人夫人の強い勧めで友人宅に泊まることになった。


「で、結局なにがどうしたっていうんだい?」

 と、友人。

「いや、それがさ……」

 佐々木さんは状況を説明した。

「それは奇妙な話だね。しかし、あの山道には家はないよ」

「え?」

「あそこには俺も何度も登ってる。ただの一本道だ。それる道なんてない」

「いや、でも確かに」

「それって『マヨヒガ』ってやつだったりしてね」

「なんだそれ」

「柳田邦夫の書物に出てくるんだよ。山で迷った者の前に現れる幻の家だ」

「幻の家……」

「その家からなにか持ち出すと福が訪れる、って話なんだけど、君、なにか持ち出したかい?」

「気味が悪くてそれどころじゃなかったよ。そんな話も知らなかったしね」

「そりゃあ残念なことをしたね」


 そういって友人は笑ったが、佐々木さんは無事下山できただけでもよかったと、今でも思っているそうだ。

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