第14話 夜勤看護師
伊藤繁蔵さんは70歳。10年前に妻に先立たれてから一人暮らしをしていた。
息子夫婦が孫を連れて度々訪ねてくるので、さほど寂しさも感じず、穏やかに過ごしていた。そんな伊藤さんが語ってくれた話が以下である。
ある夏の日。伊藤さんは肺炎に罹って入院することになった。
入院期間は2週間ほど、と見込まれた。
大部屋にするつもりだったが、息子が「金は出すから」と個室を用意してくれた。昼間は息子の嫁が、夜には息子が少しの時間見舞いに来てくれる。体調もそれほど深刻なものではなく、ちょっとした旅行気分になっていた。
とはいえ、夜になると少し寂しい。建物内に多くの人がいるのに、自分はひとりでいるからだろうか。自宅で過ごしているときより寝つきはよくなく、本を読んだりして過ごしていた。
入院3日目の夜。
その日も伊藤さんは消灯後読書をしていた。少し身体が凝ってきたので姿勢を変えようとした弾みに、メガネケースを床に落としてしまった。
伊藤さんは起き上がり、メガネケースを拾おうとした。
そのとき。
すっと横から白い手が伸びてきた。
驚いて見上げると、そこには看護師が立っていた。
「あぁ、驚いた」
「ごめんなさい、巡回中だったのですが、起こしたら申し訳ないと思ってノックしなかったのです」
そう言って彼女はメガネケースを伊藤さんに手渡した。
「ありがとう」
「いえ。眠れませんか?」
「いやぁ、環境が変わるとどうもね。昼間は孫が来たりしてにぎやかなもんなんだが、夜はやけに静かで」
「お孫さん、おいくつなんですか?」
「上は8歳、下は6歳ですよ。来年にはランドセルを買ってやらにゃあ」
伊藤さんがそういうと、彼女はにっこり笑って言った。
その右の頬にできた片えくぼの表情が亡き妻の若い頃に似ている。
「そのためにも早く元気にならなければいけませんね」
「そうですなぁ。じゃ、おとなしく寝ますかな」
「あまり眠れないようなら、声をかけてくださいね」
そう言って彼女は部屋を出ていった。
次の日の夜。
伊藤さんが本を読んでいると、また彼女がきた。
「あれ、あんた今日も夜勤かい?」
「ええ、私、夜勤専門なんです」
「そりゃあ身体に毒だねぇ」
「慣れればそうでもないですよ。元々夜型ですし」
その日も少したわいもない話をして、彼女は部屋を出ていった。
次の日の夜も、その次の日の夜も彼女はきた。伊藤さんはいつしか、彼女が来るのが楽しみになるようになっていった。
妻に先立たれたが、それなりに楽しく暮らしていること。
孫が最近は口が達者になってきて、時折物怖じすること。
そんな些細な話を彼女は楽しそうに聞いてくれたという。
彼女の名前は木下というそうだ。伊藤さんの家の隣町に住んでいて、一人暮らし。夜勤専門のほうが給料が高いので、この仕事を選んだらしい。
彼女と話すと気持ちが少しおだやかになり、気分よく眠ることができた。
そのおかげもあったのか、体調はみるみるよくなり、2週間の入院予定が10日ほどで済むことになった。
最後の夜、彼女にお礼を言いたかったのだが、その日に限って彼女は現れなかった。
思えば1週間ほど毎晩きていたような気がする。さすがに休みをとったのだろう。ほんの少しの寂しさを胸に伊藤さんは眠りについた。
翌日の退院の朝。荷物をまとめ、ナースステーションで世話になった礼を言った。木下さんは夜勤専門なのでまだ来ていないようだ。
「木下さんには、大変お世話になって。よろしくお伝えください」
「え?」
応対をしていた看護師が首をかしげた。
「木下……という看護師はいませんよ」
「え? 夜勤専門で……毎晩話にきてくれていたのですが」
「夜勤専門はうちにはいないですし、いたとしても夜勤明けは休みと決まっているので毎晩くることはありえないです」
「お義父さん、それ本当なんですか?」
不安そうに息子の嫁が聞いてきた。
ぼけたのか、とでも思ったのだろうか。
「い、いやぁ……もしかしたら……夢でもみていたんでしょうかなぁ……ははは」
そう言いながら、伊藤さんはあることに思い至っていた。
伊藤さんの妻の旧姓が「木下」だったこと。
木下さんがいつ見ても若い頃の妻に似ていたこと。
伊藤さんは近いうちに隣町にある奥さんの墓にお参りに行くつもりだそうだ。
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