第10話 ふーっ、ふーっ、ふーっ

 久しぶりに私の旧友の鈴原に会うとなにやら少しやつれていた。以前の鈴原は筋肉質で、実際毎晩腹筋とダンベル運動を欠かさないと聞いていた。

 しかし今の鈴原にはその面影は全くない。痩せ型といってもいい体型だ。


「どうした? ずいぶんやつれたみたいだけれど」

 病気か、と思い心配した私は尋ねた。

「まぁ……気力を持っていかれた、ってところかね」

 鈴原がため息交じりの声で答える。

「気力って……病気かなんか?」

「いや、そういうわけじゃない。信じてもらえるか分からないが……」


 そう言って鈴原はある体験について語り始めた。

 以下がその話だ。


 ある夜、鈴原はほろ酔い気分で家へと向かっていた。その日は長く勤めていた同僚の女性の送別会があったそうだ。

 普段鍛えている成果が出ているのか、それとも肝臓がもともと強いほうなのか、鈴原はどちらかといえば酒が強い。少なくない量の酒を飲んだはずだが、ほろよい程度で済んでいる。


 これなら一風呂浴びたら酒も飛ぶだろう。その後に日課のトレーニングをするかっと考えながら道を歩く。そんなに遅い時間でもないこともあり、人影はまばらだったがそれなりにあった。


「あのー……」


 ふいに後ろから声が聞こえた。女性の声だ。自分に声をかけているのではないだろう、多分。そう思い2、3歩進んだところ。

「あの、そこのグレーのスーツのお兄さん」

 またしても声。

 そして「グレーのスーツのお兄さん」とは自分のことだろう。道にでも迷ったのか、と鈴原は振り向いた。 そこにいたのはどこにでもいそうな普通の女性だったという。手に壷を持っている、という点を除けば。

 年の頃なら30歳前後というところだろうか。少しふくよかで、そこがまた愛らしいような印象を受ける。

「どうされました?」

 壷を買え、というのではあるまいな。

 そう鈴原は少し警戒しながら答えたという。

「ちょっと……お願いがありまして……」

「あー……そういうのね、いらないから。じゃあ」

 そういって立ち去ろうとすると、女性があわてて付いてきた。

「あ、これを買ってっていうわけじゃないんです。ちょっとやってほしいことがあって」

「はあ? 他の人、あたってもらえません?」

「あの、本当に簡単なことで。お金とかいらないし、なにかに勧誘するわけでもなくて」


 後々考えると、ここで引けばよかったのだろう。しかし、鈴原はつい興味を惹かれてしまった。

「なにするか、によるけど?」

 鈴原がそう答えると、女子は嬉しそうに微笑んだ。

「この壷の中に、息を吹きかけてもらうだけです」

「は?」

「壷の中にですね、ふーって」

「なんの意味があるの、それ?」

「これ祖父の形見の壷なんですけど、いろんな人に息を吹きかけてもらった後に花を生けたら長持ちするんです」


 何を言ってるんだ……。訳のわからない者を相手にしてしまった。鈴原は少し後悔した。

「いや、そんな馬鹿な話、あるわけないでしょ?」

「でも、本当なんです……。他の花瓶に生けた場合と……そうですね、状況にもよりますが倍は保ちます」

「そういう話、信じてないから。じゃあね」

 立ち去ろうとする鈴原に女性は更に食い下がる。

「今回だけでいいですから! 今後は絶対声をかけませんから!」

 鈴原は多少面倒になるのと同時に、若干の危険を感じた。

 仕組みは分からないが、息を吹きかけたら毒を吸い込む、なんてことは……。

「じゃあさ、あんたが先に見本を見せてよ。そしたらやってやってもいいよ」

 鈴原がそういうと、女性は目をキラキラさせて答えた。

「もちろんです! 見ててくださいね、こうやって……」

 ふーっと長い息を壷に吹き込んでみせた。

「これだけです! 簡単でしょ?」

 どうやら毒の類の心配はないようだ。

 それにそろそろ解放されたい。

「わかったよ……一息吹き込めばいいんだな?」

 鈴原がそういうと、女性は鈴原の頭から足の先まで一瞥してからこう言った。

「お兄さん、体格いいですから、よかったら三回ほどお願いできませんか?」

「わかった、わかった。三回な。その代わりもう二度とやらないからな」

「もちろんもう迷惑かけません!」

 そう言って女性は鈴原に壷を渡した。どっしりと重いそれを受け取り、鈴原は息を吹きかけた。


―ふーっ、ふーっ、ふーっ


「これでいい?」

「ありがとうございます!!」

 弾けんばかりの笑顔で、鈴原から壷を受け取り女性は礼を言い立ち去っていった。


―結局、なんだったんだ???


 訳のわからないやりとりにすっかり疲れ、家へと向かった。

 その日はなんとなく日課のトレーニングをする気になれず、軽くシャワーを浴びて眠りについた。

 翌朝。

 鈴原の朝食は、トーストとベーコンと目玉焼きだ。

 一人暮らしだが、毎日こまめに作っている。

 しかしその日はなんとなく面倒で、トーストだけで済ませたという。


 その日は一日忙しく、帰りはいつもより少し遅くなった。

 外食する気にもなれず家に帰り、冷蔵庫を開けたものの特に手軽に食べられるものは入っていない。仕方なく茶漬けで済ませることにした。


 さて、トレーニングを……と思ったものの何故か気が進まない。そういえば今日の昼はざるそばをすすっただけだ。いつもは肉や野菜がたっぷり食べられる定食を食べているのに。

「今日は……いいか……また明日やれば」

 結局その日もトレーニングをせずに布団へもぐりこんだ。

 その次の日も、またその次の日も、鈴原はなにか気だるさを覚えていた。

 食欲もあまりなく、トレーニングをやる気にもなれない。

「どこか悪いんだろうか……」

 心配になった鈴原は病院に行ってみた。

 検査結果は問題なし。

「いやー、全く問題ないですね。むしろいいくらいですよ」

 結果を見ながら医師が言う。

「でも、だるいんですよね」

「疲れてるんじゃないですか? あとは精神的なものか……精神科行ってみます?」

「え? いや、そういう類のものじゃないと思うんでいいです」

「まぁ、不調が続くようならまた来てください」


 病院へ行ってからも気だるさは続いた。

 トレーニングはすっかりやっていない。

 食事もあっさりとしたものを好むようになり、筋肉は見る見る落ちて痩せていった。

 すっかり痩せ型になったところで気だるさはふいに止まった。

 だるさはないものの、食生活は変わらず、もはやトレーニングはする気もない。

 私と会ったのはそんな時のことだそうだ


「で、結局もう大丈夫なわけ?」

 心配する私に鈴原は笑って答えた。

「念のため、もう一度病院行ったよ。まったく問題ないってさ」


 そうか、と私が安堵していると鈴原が小さな声で付け加えた。


「ただ、あれ、本当に普通の壷だったのかなぁ、て思うんだよ」

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