第9話 傷
沙織さんは学生時代、雨の日に道端で鳴いていた子猫を保護した。同居の家族たちも可愛がり、みんなで大切に育てていた。
その猫が8歳になった頃。沙織さんが社会人5年目になったときのことだ。
少しずつ食欲が落ちていき、懸命に看病したものの死んでしまった。
沙織さんは泣いた。大切だった小さな命。もう少し長く一緒にいることができると思ったのに逝ってしまった。
しばらく落ち込んでいた沙織さんだったが、会社で新しく始めたプロジェクトに参加することが決まり、多忙を極める中だんだん悲しみも薄れていった。
プロジェクトに参加し始めてから一年。沙織さんは実家を出て一人暮らしをはじめた。
できるだけ会社の近くに住みたかったからだ。
利便性を考えて独立したものの、やはり少しさびしかった。
テーブルの上にはあの猫の写真を飾っていた。
さびしくなったり、仕事に疲れたりすると写真の猫に話しかける毎日を過ごしていたという。
そんな沙織さんに彼氏ができた。隣の部署の徹という男だ。
彼の家は少し遠く、気が付くと沙織さんの部屋で半同棲生活を送るようになっていた。
それにも関わらず、彼は食費などの諸経費を沙織さんに渡そうとはしなかった。
少し負担してほしい、と思わなくもなかったが言い出すきっかけがつかめず、そのままになっていた。
ある日のこと。沙織さんが疲れて帰ってくると徹が先に帰ってテレビを見ていた。
「遅くなっちゃった、ごめんね」
「いや、いいよ。それより腹減っちゃったよ」
「ああ……。ちょっと疲れてるから、どこかに食べに行こうか」
「ええ、雨が降ってるから面倒だよ。なにか軽く作ってよ」
「……パスタでいい?」
「いいけど、インスタントは嫌だよ」
「分かった……」
実家から送られてきたクリームソースのレトルトパックがあったのでそれにしようかと思っていた沙織さんだったが、冷蔵庫からキノコとベーコンを取り出し調理を始めた。
トマト缶があった。これくらいならインスタントではない、と言ってもらいたい。
沙織さんもそろそろ結婚を考える年頃になってきている。
相手は、というと徹だろう。
仕事は続けたい。しかし今の徹を見ていると、彼と結婚して仕事を続ける自分が明るいイメージで浮かんでこない。
現に今、沙織さんは家に帰ってから座ることもなくキッチンに向かっている。
テレビの音とそれを見て笑う徹の声をBGMに沙織さんは調理していた。
―……なにが「インスタントは嫌」よ
苛立ちながらキノコとベーコンを炒めているとついつい大きな音を立ててしまう。
「もうちょっと静かに料理してよ」
徹が笑いながら振り返った。
「……」
「なに機嫌悪いの?」
「悪くないわ、疲れてるだけ」
「ふーん」
そう言って徹はまたテレビに顔を向ける。
―……「疲れてる」って言ったのよ、どうしてそんな返事なの?
茹で上がったパスタをフライパンに移し、ソースと絡めた。皿に盛り付けてテーブルに運ぶ。目の前に運ばれたパスタを「いただきます」も言わずに口に運ぶ徹を見て、沙織さんは思わずため息をついた。
「あれ、これ味足りなくない?」
苛立ちながら調理したせいか、味見を怠った気がする。もしかしたら塩と胡椒を忘れたかもしれない。
「そういえばお塩が少し足りないかもね」
「匂いはいいのにもったいねー!」
茶化すように徹が言った。
―……塩が足りなきゃ自分で好きなだけ入れなさいよ
沙織さんが苛立ちを抑えながらパスタを口に運ぼうとした瞬間、徹が声を上げた。
「痛て!!!」
「どうしたの?」
「なんか……あれ? これ、なんだ?」
「なんなのよ?」
「ほら、これ見て」
徹が腕を見せた。
そこには三本の傷があった。なにかの引っかき傷のような。
「どうしたの、これ?」
「分かんねぇよ、突然ぴりっときたらこれだよ」
「……よく分からないけれど、手当てしましょう」
救急箱を取り出し、消毒をする。
三本傷なので絆創膏ではカバーできないのでガーゼを当てることにした。
「なんなんだよ、もう……」
徹はすっかりおとなしくなり、後は無言で食事を終えた。
それから1ヶ月ほど経った頃だろうか。
徹は突然会社を辞めた。
理由を聞いても「部長がうざいから」「あんな仕事やってられない」と応えるだけだった。
実家に戻るのかと思えばそうではなかった。一日中沙織さんの部屋に入り浸るようになった。仕事を探す気配もない。かといって家事を手伝ってくれるわけでもない。
なぜ彼と一緒にいるのだろう、いっそ追い出してしまおうか。沙織さんはそう考えるようになっていたという。
ある日のこと。
沙織さんが仕事から帰宅すると、テーブルの上に空けられたビールの缶が数本転がっていた。
徹は、というとソファでいびきをかきながら寝ている。
ビールの缶を片付けていると、テーブルの上に飾っていた猫の写真がないのに気が付いた。
慌ててテーブルの下を確認すると、写真立てが転がっている。
拾いあげてみるとガラスにひびが入っていた。
「あー……おかえりー」
徹が目を覚ましたようだ。
「これ、割れてるんだけど」
「あれ? 落としたかな」
「……」
「ごめん、ごめん。悪かったよ」
「……仕事は?」
「ん?」
「仕事は探さないの?」
「ああ、それで頼みがあるんだよー」
ねっとりとした口調で徹が言う。
「なに?」
「ちょっとさ、金貸してくれない?5…いや、7万ほど」
「なんで?」
「スーツをさぁ、買おうと思って」
「スーツならあるじゃない」
「もっといいやつならさぁ、気合も入るじゃん?だから頼むよぉ」
媚びたような、落ち着かないような視線で沙織さんを見る。嘘だ、沙織さんは直感的に思ったそうだ。
「……貸さない」
「なんでぇ? そろそろさぁ、結婚したいじゃん? 仕事見つけなきゃ」
徹が立ち上がり、沙織さんを抱きしめようとしたがそれを拒否した。
「お金は貸さないし、あなたとは結婚しない。出ていって!」
「そんなクソみたいな写真立てでなに怒ってんの? お前、俺を逃したら行き遅れだぜ」
「いいから出ていって!」
「なに言ってんだよ、お前はよぉ!」
徹が真っ赤な顔で拳を振り上げた。沙織さんはとっさに頭を守ろうと目を閉じてしゃがみこんだ。
その時だ。
「痛ってええええ!」
徹が叫んだ。
目を開けて見上げると、徹の眉から頬にかけて傷が付いていた。
三本傷だ。
あの時よりもあきらかに深く、血がだらだらと流れている。目に損傷はないようだが、まぶたにも傷が走っていた。
「なんだよ!これ!!」
「……出ていって。荷物は後で送るから」
顔を押さえている徹の手は血塗れだ。
「なんだよ、なんかお前気持ちわりぃよ!」
徹はそう言って部屋を出ていった。
それ以来徹とは会っていない。後日メールで送られてきた住所に荷物を送り、関係は終わったという。
「あの子が助けてくれた気がするんです」
そう言って沙織さんは笑った
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