第8話 浮く男

 その当時鈴木さんは金に困っていたという。

 勤めていた会社が急に倒産し、再就職先を探したもののなかなか見つからず、アルバイトで当座をしのいでいた。住んでいたアパートも家賃が高く、できればその半額以下の家賃のところに引っ越したいと考えていたとのこと。

 

 ある日、鈴木さんは駅前の小さな不動産屋に出かけた。ネットではなかなかいい物件が見つからず、掘り出し物はないかと考えたためだ。

 引越しにはそれなりに金がかかる。中途半端に安い物件だとペイできない。できれば今住んでいるところの近くで荷物は自分で運ぼうと思っていた。

 店先に貼られた広告を見たが、いいものは見つからなかった。


 掘り出し物はないかと、鈴木さんは店内に入った。個人経営のその店の狭いカウンターには店主らしき男が座っていた。

 鈴木さんは事情を説明し、できるだけ安い物件はないか聞いてみた。

「あるにはあるけどね。」

 店主がメガネをずらし、鈴木さんの顔色を伺う。

「お望みの物件、ありますよ」

 店主は手にしていた新聞を横に置き、棚からファイルを取り出してきた。

「敷金礼金なし。家賃2万円。どうです?」

 思ってもいない安い物件だ。駅にも近いようで、生活するにも不自由がなさそうなところのだったという。しかし、それにしても敷金礼金なしはいかにも怪しい。

「それって、大丈夫なんですか?」

「どうみても怪しいよねぇ?」

「怪しいですよ。なにか問題のある物件なんですか?」

 鈴木さんは不安になって聞いてみた。

 店主が少し口角を上げて言った。

「事故物件、ってやつですよ」

「それって殺人があったとかってやつですか?」

「いや、自殺。以前その部屋に住んでいた住人が自殺したんだ」

「その部屋で?」

「いや違う。でもね……」

「なんです?」

「まぁ、信じるかどうかはお客さん次第だけどね。……出るらしいんだよ」

「幽霊……ですか?」

「うん。そこに入った方、みんなそう言ってたそうだ。あたしゃ、信じないけどね」

 ふっとため息をついて店主が言った。

「そんな訳ですぐみんな部屋を出ちまう。そうなるとね、どうなると思う?」

 店主が鈴木さんの顔をじっと見ながら言った。

「……さぁ……」

「他の部屋の住人も気味悪がって出ちまうんだよ」

「あぁ……」

「で、弱った大家がそこを格安物件にして、うちに仲介を頼んできた、ってとこさ」

「なるほど……」

「どうだい? 実際に見てみるかい? 部屋自体は悪くない。この家賃じゃ破格だ」

 鈴木さんは心霊現象は余り信じていない。例え本当に「出る」としても、この価格は魅力だ。


「近くなんですか?」

 頭の中で素早く計算した結果、あるかも分からない心霊現象より家賃をとることにした鈴木さんは聞いた。

「近くですよ。 なんなら今からでも」

「ぜひお願いします」

 鈴木さんがそう言うと、店主は棚から鍵を取り出した。

「ご案内しますよ」


 鈴木さんが店から出ると、店主は店の照明を消し、ドアにしっかり鍵をかけた。

「従業員はあたしだけなんでね。 さ、こっちですよ」

 そう言った店主に付いて10分ほど歩いた。

「ここですわ」

 店主が指したアパートは3階建ての比較的綺麗な建物だった。

 建物の前には公園がある。

「昼間は公園で遊ぶ子どもの声で、少しうるさいかもしれないけどね」

 店主が言った。

 公園では子どもたちがサッカーをして遊んでいる。

 歓声は上がるが、さほどうるさいとも感じない。それに昼間はアルバイトなので問題はない。

「昼間は仕事なんで大丈夫です」

「じゃ、『そこだけ』は問題ないですね」

 店主はにやり、と笑い「そこだけ」を強調して言った。

「部屋は2階の真ん中辺です。 先に上がりますね」

 そう言って階段を上がる店主の後ろに鈴木さんは付いていった。 

 階段は綺麗に掃除されていて、荒れた雰囲気は全くない。共用通路も綺麗だ。


「ここです」

 そう言って店主が部屋の鍵を開けた。

 通された部屋はフローリングのワンルームだった。

「こちらがトイレ。で、こっちが風呂」

 浴室はさして広くはないが、ユニットバスではないため使いやすそうだ。綺麗に磨かれた鏡もある。日当たりもよかった。窓を開けると、さっきの公園が見えた。

 これはいい、と鈴木さんは思ったという。


 駅から近くてこの値段。「出る」かもしれない、ということを引いても悪くない。

 恐らく自分は「見ない」だろうと鈴木さんは思ったそうだ。

「どうです?」

「いいですね。ここに決めます」

「『出ない』といいですね」

 店主がにんまり笑って言った。

 その後店に戻り、契約の手続きを済ませ、翌週には入居することにした。

 

 引越し費用をできるだけ安く済ませたい鈴木さんは、知人から軽トラを借りて自分で荷物を運んだ。

 もともと持ち物はあまり多いほうではない。作業もすぐ済んだその夜、鈴木さんは部屋で一人祝杯をあげた。

 環境が変わると気分も変わる。いい条件の部屋を見つけた。この調子だといい条件の就職先も見つかるような気さえしたそうだ。

 鈴木さんは、さっとシャワーを浴びベッドにもぐりこんだ。

 

 数日経っても特に怪しい現象は起こらなかった。やっぱり自分は「見ない」体質なのだ。そう思った鈴木さんは、すっかり気をよくして新生活を楽しんでいたという。


 ある日の夜。

 友人たちと飲みにいった鈴木さんは、すっかり酔っ払いふらつきながら部屋に戻った。冷蔵庫を開けてお茶を飲む。

 シャワーで酔い醒ましをしようと、浴室にはいった。ざっと髪を洗い、タオルで水滴をぬぐい上げたときのこと。

「ん?」

 ほんの少しの違和感。鏡になにか映っているような。

「なんだ?」

 鈴木さんの肩の後ろ辺りに、なにかが映っている気がしたという。


 まだ酔いの残っている鈴木さんは、鏡をタオルでよく拭いて確認してみたが、そこには何も映っていなかった。

 そっと後ろを振り返る。なにもいない。

「……なんだぁ」

 ふぅ、とため息をついて鈴木さんは浴室から出た。


 それから数日後の夜。

 鈴木さんは眠れずにいた。こういうことは珍しい。比較的寝つきがいいほうの鈴木さんは苛立ちながらベッドで横になっていた。

 寝返りを打って横を向く。うっすらと明けた視界の先になにかが映った。そっと目を開けてよく見てみる。


 足だ。


 ちょうど床から浮き上がるような感じで足が見えている。

 指の形も確認できる。


 -見てはいけない


 心はそう拒否するのだが、その足から上を見てしまった。

 男が鈴木さんを見下ろしていた。

 やけに背が高いように見えるが、それは浮いているからだろう。

「ひっ」

 鈴木さんは布団を頭からかぶり、気が付いたら朝になっていた。


 翌日、鈴木さんは「見える」という友人を家に招いた。その友人は、部屋に入るなりため息をついた。

「なにか、いる?」

 恐る恐る尋ねる鈴木さんに友人は答えた。

「そこ。男の人が浮いてる」

 友人には浮く男の話はしなかった。ただ「事故物件」を借りたから見てくれ、と伝えただけだ。

「浮いてる?」

「うん、首が曲がってる。首吊りしたんじゃないのかな。なにか怖いこととか起きなかった?」

「……特になにもないけど」

 鈴木さんはうそをついた。

「気付いてないだけじゃない? 今現れたんじゃなくて、ずっといるみたいな感じだけど」

「……引っ越したほうがいい?」

「俺なら引っ越すね」

 長居したくない、と友人は言ってそのまま帰っていった。


 友人を見送った鈴木さんはすぐに不動産屋に行った。

「あぁ。 どうです、その後」

 店主がにっこり笑って言った。

「あの……以前自殺した人って一体どういう死に方……」

「あぁ、詳しく話してなかったですかね。首吊りですよ」

「首吊り?」

「あの前の公園でね。確か男性っつったかな。それがなにか?」

「……」

「『出た』ってやつですか?」

「……そうです」

「……部屋、出ますかい?」

「できればすぐ」


 そのまま解約手続きをし、数日後には引っ越した。思った以上に出費がかかったが、それどころではない気分だった。

 幸い貯金を使い果たす前に新しい就職先を見つけることができた。


「安物買いの銭失い、ってこのことですよ」

 そう話す鈴木さんは、今でも時折あの男の夢を見るそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る