第6話 猫病院 その四



 肉が食いちぎられるのかと思う激痛。

 見れば、青蘭がかみついている。


「なッ——」


 いや、違う。青蘭じゃない。青蘭の服を着てはいるものの、その顔はやはり猫だ。長めの前髪がどんどん短く白くなり、またたくうちに獣毛に覆われた完全な白猫の頭部に変化した。悪魔が青蘭に化けていたのだ。


 龍郎は無意識に右手を伸ばした。青蘭でなければ遠慮はいらない。こぶしをお見舞いしようとしたが、その瞬間に悪魔のほうがとびのく。


「シロはぼくの友達だったのに。お兄さんはシロをイジメたんだ」


 声はさっきの子どもだ。

 この結界を作っているのは、このまだ十歳かそこらの少年なのだ。


 おそらくもう生きてはいない。病院に巣食っているということは、病気で死んだのだと考えられる。


「シロはもう苦しまなくてもいい場所へ行ったんだ。君も早く行かないと」

「ぼくはシロといっしょじゃないと行かないよ」


 困りはてて、龍郎は青蘭の服を着た白猫を見つめた。

 しかたない。ここはムリヤリにでも浄化してしまうよりほかはない。悪魔化した人間の魂は浄化しないかぎり、人に戻れないからだ。魔を祓えば、また人に転生することができる。少年の霊を路頭に迷わせておくよりは……。


 龍郎が手を伸ばそうとしたときだ。ガタガタと音がする。壁ぎわに立てられたスチール製の書棚がゆれている。一番下の両扉になった覆い戸が、勢いよくけりあけられた。なかから全裸の青蘭がとびだしてくる。


「青蘭——」

「こいつ! 僕の服をかえせ!」


 あいかわらず華奢で、美しい。純白のなめらかな肌は輝くばかりだ。二人ですごした甘い夜を思いだして、ため息がもれる。


(あれ? でも……)


 今一瞬、胸のまんなかに小さな模様のようなものが見えた。タトゥーだろうか? 以前の青蘭にはなかったものだ。


 青蘭は自分の服を奪った猫頭の少年になぐりかかっていく。けっこう元気で安心した。あんな電話をかけてくるから、どれほどの危険にさらされているのかと心配したが、問題なさそうだ。


「今すぐ祓ってやるから、覚悟しろ!」と、青蘭があられもない姿で叫ぶ。


 すると、そこへ廊下側から診察室のドアがひらいた。

「待ってください!」


 今度は誰だろう。

 次々にいろいろ起こって、だんだん収拾がつかない感じになってきた。かえりみると、戸口に女の人が立っていた。どこかで見たことがある。四十代くらいの泣きはらした目の女。


(この人……そうか。さっき病室にいた)


 悪魔の結界内部に入る前。現実世界の病室で、ぼんやり外をながめていた。

 あのとき、子どものほうは足元しか見えなかったが、おそらく、あれがこの少年だったのだろう。


 すると、女性が龍郎の予想を裏打ちする。


「その子はわたしの子どもです。ついさっき息をひきとりました。お願いです。乱暴しないでください」


 いったい、どうやって一般人が結界のなかへ入ってきたというのか。あるいは少年が呼んだのかもしれない。


凛人りんとは生まれつきの虚弱体質で、学校にもほとんど行けませんでした。この子にとって、猫のシロだけが友達だったんです」


「だからって、コイツはもう悪魔だ。ほっとくわけにはいかないんだよ」


 青蘭は冷たく言い放ちつつ、女性の前にヌードをさらしている。龍郎はあわてて自分のハーフコートをさしだした。まだ肌寒いと思い、着てきてよかった。青蘭は無言で受けとり、コートに袖を通す。しかし、そうしながら少年の悪魔に馬乗りになったまま油断なく押さえている。


「ママはウソつきだ」と、凛人は言う。

「マナ姉ちゃんがシロを海になげすてたって、ぼくは言ったんだ。なのに、そんなこと絶対に人前で言っちゃいけませんて。ママはぼくのこと信じてないんだ」


 母親はボロボロ涙をこぼしながら両手をもみしぼる。


「ごめんね。凛人。信じてないわけじゃなかったの。だけど……」


 なんとなく事情がわかってきた。


 体の弱い子どもにとって、ペットの猫は大切な友達だった。その大事な友達が殺されたのだ。どんなにか悲しくて悔しかったことだろう。しかし、それを必死に訴えても、母親は信じてくれなかった。いや、信じてくれなかったと凛人に勘違いされる態度をとったわけだ。


「凛人くんのお母さん」

「はい」

「あなたは凛人くんが言ったことを信じなかったわけじゃない。ただ、浦主家は旧家だし、最近は下井さんが援助をして、また羽振りがよくなった。島内での影響力が大きい家系だ。事を荒立てるマネをしたくなかったんですね?」


 母親は泣きながら、うなずく。


「そう……そうです。あの家の当主は代々、呪われているんです。真魚華さんのおじいさんや、ひいおじいさんの話は島の人間なら誰だって知ってますから。現に真魚華さんだって生き物を殺したり、変なところがあるじゃないですか。たてついたら、凛人が何をされるかわからないと思ったんです」


 龍郎がふりかえると、凛人の顔は人間に戻っていた。体も十歳なみに小さくなっている。いや、その年齢にしても、かぼそい。


「ママ……」

「ごめんね。凛人。あなたを傷つけられたくなかったの。でも、結果的にそれがあなたを傷つけたのね」

「ママは、じゃあ、ほんとはぼくを信じてたの?」

「もちろんよ」

「ぼくのこと、好き?」

「世界中で一番、凛人のことが大好きよ」

「ママ!」


 少年は母の胸にとびついていく。全身が淡く発光している。これなら、龍郎が祓うまでもない。やがて、おぼろに消えていった。


 青蘭がいつのまにか、龍郎のとなりに来ている。


「なんだ。ママに愛されてないって、駄々をこねてただけか」

「あの年なんだから、しょうがないよ」


 きっとあの世でシロとも再会している。シロも喜んだことだろう。


「あの子、来世は健康な体に生まれてくればいいなぁ」

「あなたはお人好しすぎますね。殺されかけたのに」


 とつぜん、青蘭が「あッ」と大声を出すから何事かと思えば、「僕の服が消えちゃった」


 途方にくれているようすが可愛い。


「着替えはないの?」

「インナーはあるけど、スーツはあれしかなかった。荷物になるから、ほかは全部、車に置いてきた」

「島に服屋はないのかな?」

「今度は服屋か……」

「また化け猫がいたりして」


 龍郎は冗談のつもりで言ったのだが、青蘭は神妙な顔をしている。何か心配ごとがあるようだ。




 了

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