第4話 崖を這う猫 その二
青蘭の過去にいったい何があったというのだろう?
そう言えば、昨夜、龍郎が見た幻の青蘭は、探しあてるのが遅かったと言って怒っていた。あれは、そういう意味だったのか?
「……青蘭」
「怖い……アイツが迎えに来るんだ」
「おれがいる。おまえを守る」
肩をふるわせながら
いつも笑っていてほしい。だけど、今回も龍郎はまにあわなかった。今の世界の青蘭もまた傷ついたあとだった。以前の世界で傷つく前に助けだせなかったことをあれほど悔やんだのに、ここでもまた……。
龍郎が自分の不甲斐なさをかみしめていたときだ。
どこからか音がする。
カリカリ……カリカリ……。
夢のなかで聞いたあの音だ。
かたいものをひっかくような?
(なんだ? あの音。夢じゃなかったのか?)
だんだんに近づいてくる。
龍郎は青蘭の肩を抱きながら、音のするほうへ歩いていった。障子のむこう。海側から、その音は聞こえる。
そっと障子に手をかける。片手で静かにすべらせると、夜の海が月光のもと、妖しく波打っていた。しかし、音をたてるようなものは見えない。
「変だな。気のせいか?」
「あいつだ。アイツが来るんだ……」
青蘭がおびえるので、その肩を抱く手にさらに力をこめる。
龍郎はあたりを見まわしたのち、障子をしめようとした。とたん、ガサリと大きな音がする。下方だった。
「青蘭。ここで待ってて」
縁側の下をながめても、とくに何もないので、龍郎は思いきって、縁側から外に出ていく。
「僕も行くよ」
可愛いことを言って、青蘭が背中にひっついてきた。このまま永久に剣崎には眠っていてもらいたいものだ。剣崎が目をさませば、青蘭はまたそっちに甘えるだろうから。
青蘭をひきつれて、細長い庭におりる。縁側の下には何もいない。庭にも音を立てそうなものは見あたらない。だが、たしかに音はする。するどい爪が固い岩をひっかくような音だ。
(固い岩……)
もう、そこしかない。
龍郎は度胸を決めて、崖のほうへ歩いていく。
「気をつけて。きっとアイツだよ」
青蘭の泣きそうな声を聞きながら、龍郎は崖の下をのぞいた。二十メートルか三十メートル離れて暗い海面がゆれている。
垂直の崖だ。ゆれる波間から崖の岩肌に視線を移して、妙なものを見つけた。
(なんだろう? 光ってる)
崖のなかほどに蛍でもとまっているのだろうか? いや、蛍にしては、やけにデカイ。緑色の丸いものが一つ光っている。
じっと見つめていると、一瞬、光が消えた。が、またすぐに光る。点滅している。数秒に一度、ついたり消えたりする。
ふいに龍郎は気づいた。
それがまばたきだということに。
「うわッ。なんかいる!」
「猫の目だ」
そう。猫だ。アーモンド型の緑色の瞳が闇のなかで燃えている。しかし、通常の猫なら二つ光るはずだ。つまり、片目しかないということか。
「片目だ」
それを確認して、急に青蘭は元気づいた。
「よかった。アイツじゃない」
「アイツって?」
「それは……」
ここまで思わせぶりにしてきたくせに、青蘭は口ごもる。言いしぶっているうちに、崖下の光る目が移動した。近づいてくる。二、三メートル間近まで来ると、全体の形が黒いシルエットになって見わけられた。
ほんとに猫……だろうか?
妙に手足が長い。まるで、その形は人のように見えるのだが?
(まさかな。人間がこんな絶壁、道具もなしにしがみついてられるわけがない)
それにしてもすごい速さだ。その敏捷さだけ考えれば猫とも思える。猫にも、人にも見える何か——
それが迫ってくる。龍郎たちにむけられる悪意を感じた。攻撃してくるつもりだ。
龍郎は浄化の光を放った。しかし、それはひるまない。崖を這うスピードがわずかにゆるくなった。そのすきに青蘭をつれて縁先まであとずさる。崖のきわでは襲われたとき、あまりにも危険だ。
「青蘭。戦える?」
「ええ。でも、上級悪魔ですね。あなたがほんとに退魔できるのか証明してください」
「わかった」
崖のてっぺんから、黒い頭が浮かんできた。金緑に燃える
龍郎は親指と人差し指で輪を作る。それを破裂させるようにひらくと、浄化の玉がとびだす。悪魔は危険を察知したふうで、ヒョイと玉をかわした。
が、そのせいで、つかのま動きが止まった。そのすきに、龍郎は退魔の剣を手の内に呼びだした。いや、呼びだそうとした。が、どうしたことか、いつものように右手に意識を集中しても、剣が出てこない。
「あれ?」
「どうかしましたか?」
「いや、剣が……」
制御が不安定だったころは出たり出なかったりした。でも、使いこなせるようになってからは自在に出し入れできたのだが。
(もしかして、苦痛の玉がなくなったからか?)
以前の世界で、龍郎の右手のなかに宿っていた、天使の心臓の結晶。苦痛の玉、快楽の玉。共鳴する一対の石のその一方。
あれが退魔の力になっていたことは理解しているつもりだった。それでも、龍郎自身、天使の心臓を有し、浄化の力を持って生まれているはずなのだが……。
とまどっているところへ、悪魔が攻撃してきた。両手のするどい爪を伸ばし、龍郎の首に迫る。あやうく、頸動脈を切られるところだ。なんとか左によけて、ちょうどガラ空きになった悪魔の腹に右手を叩きこむ。
金切声をあげ、悪魔が地面に倒れる。が、こっちが追撃する余地なく起きあがり、とびすさる。
龍郎たちの周囲をかけまわり、しだいにスピードが増していく。人間の肉眼では動きを読みとることができなくなった。
(くそッ。どうすれば……)
剣が出ないのでは火力が弱すぎる。上級悪魔はとても倒せない。
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