第四話 崖を這う猫

第4話 崖を這う猫 その一



 その夜。

 龍郎は浦主家に泊まった。

 青蘭と剣崎は昼間の八畳の一室。龍郎は襖をへだてたその隣室だ。


 夜になって帰ってきた下井は、真魚華が片目を一生失うかもしれないと聞いても、眉ひとすじ動かさなかった。それどころか、むしろ嬉しそうだ。花嫁の美貌に傷がついたことを喜んでいる。やはり、ただ復讐のためだけに結婚したいのだ。


「へえ。真魚華がね。ところで、悪魔とやらはどうなったんだ? やっつけたのかね?」

「白猫の霊は浄化しました。でも、あれがすべての元凶とは思えません」

「ふうん。そうかい」

「真魚華さんの了承は得ています。しばらく、この屋敷に泊めてもらいます」

「まあ、そうだな。こっちに害があっても困る」


 まったく対岸の火事だ。呪いが自分の身にふりかかるとは思ってもいないのだろう。


 夜の食事はかんたんにカレーライスだった。たしかにこれなら人数を気にしなくていい料理だ。しかし、風呂はまきをくべて沸かす総檜で、風情があることこの上ない。これで青蘭と布団をならべて一間なら言うことはなかったのだが。


 青蘭は龍郎が白猫の霊を祓ったことを認めてくれなかった。見てなかったから、ほんとに龍郎がやったのか判断できないと言うのだ。本心は真魚華とキスしていたことへの腹いせだと思う。


(自分はほかの男とイチャイチャしてるくせに……)


 襖一枚へだてて、青蘭が恋敵と寝ていると思うと、胸が焼けるように痛い。

 とても眠れなかった。

 龍郎は障子をあけて、外をながめる。屋敷の南側はいちめんの大海原だ。縁側から数メートルほどの細長い庭はあるものの、その下は崖である。目のくらむ高さだ。柵はない。


 左右を見ると、崖の上の細い庭を通って、屋敷の外を移動できるようになっている。が、途中で崖がくぼみになっていて、屋敷のかどをまがることはできない。


(途中までしか行けないんだな。玄関も同じく、ここからは通れない)


 玄関のよこに二メートル強の塀があり、通りぬけできないようにされていた。つまり、この細長い裏庭は、屋敷のなかからしか出入りできないのだ。


 奥側の崖はいったん、くぼんだあと大きく歪曲して前方に張りだしている。そのため、灯台がよく見えた。強いライトが海を照らしている。その下あたりの崖のなかほどに、黒く穴があいている。洞窟かもしれない。


 それだけ確認して、龍郎は室内に戻った。まだ障子をあけはなしたまま寝るには夜は寒い。月が冴え冴えと美しいのでながめていたかったが、しかたなく障子をしめた。


 布団にもぐりこみ、どれくらい経っただろうか。

 とうてい寝られないと思っていたのに、いつしか寝入っていたらしい。

 ザザン、ザザザと打ちよせる潮騒のなかに、毛色の違う音がまじる。それを夢心地で聞いていた。


(なん……だろう? あの音……)


 カサカサというか、カリカリというか、かたいものをかきむしるような……。


 ガリガリガリ……カチッ、カチッ……。


 耳ざわりなその音が、龍郎を不快にさせる。


(なんだよ? 青蘭が変なプレイしてるのか?)


 器具でも使ってるのか、などと夢のなかの意識で考えていたときだ。急に近くで悲鳴が響いた。


「……や——やめッ!」


 龍郎はハッとして目をあけた。完全に覚醒する。

 隣室から争う物音がしている。


「青蘭ッ!」


 ガラリと襖をあけた。

 小太りの中年男が青蘭を組みしいている。下井だ。

 剣崎は自分の布団の上で眠っている。このさわぎのなか起きてこないのはおかしい。薬でも盛られているのかもしれない。そう言えば、夕食のとき、すすめられた地酒に邪気を感じて、龍郎は口をつけるふりだけして飲まなかった。


「青蘭を離せ!」


 龍郎がつかみかかると、下井はあわてふためいた。どう見ても、体格で龍郎に負けている。


「な、何をするか。これは報酬だ。ただで泊めてやってるんだからな」

 青い顔で弁明する。


「ここはあんたの家じゃない。おれたちは、ちゃんと当主の真魚華の許可を得てるんだ。なぐられたくなかったら、さっさと出ていけ!」


 青蘭の衣服は乱れているものの、まだ着ている。実害は着衣の下まではおよんでいない。もしも行為後だったら気を失うまで殴りたおしてやるところだが、怒鳴りつけるにとどめた。


 下井はぬぎかけたパジャマのズボンをふみながら、あたふたと廊下へ出ていく。


「青蘭。大丈夫?」


 かけよると、青蘭が抱きついてきた。泣いている。神秘的な瑠璃色の瞳から、水晶の涙がポロポロこぼれおちてくる。


「青蘭……」


 下井に何かされたとは思えないのだが。被害があったとすれば、素肌の露出した首から上だ。唇を奪われたのだろうか? だったら、やはり一発くらいは殴ってやればよかった。


「もう心配いらないよ。おれが守るから」


 ささやくと、青蘭はいよいよ強くすがりつく。

 異様な気がした。

 たしかに真夜中、男に布団に侵入されれば、誰だって不愉快な気分になる。腹立たしいし、屈辱的だ。だからと言って、未遂に終わったのなら、ここまで嘆くだろうか?


 なんだか青蘭のそれは、すでに蹂躙じゅうりんされたかのような態度だ。


「青蘭……アイツに何かされたの?」


 そっとささやく。

 すると、思いがけない答えが返ってきた。



 今ではない。

 それは過去にということか?

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