第47話「さよならのキスは優しくて苦かった」
「紘太ー、今帰ったわよ」
あれから何とか予定通りに早めに仕事を切り上げ、限竜のマンションへ戻って来たのは夕刻だった。
本来ならばこんな早くに帰宅する事はないけれど、彼が心配だったのだから仕方ない。
相変わらず殺風景な部屋の隅に彼は座っていた。
その表情にいつもの苦悶はなく、どうやら珍しく穏やかに眠っているようだ。
だが床には赤い血液のような不吉な跡が点々と散らばっている。
「…また何かやったな」
さらさは舌打ちして、限竜のギッチリ握られた手を開く。
その手にはホッチキスのようなものが握られており、掌は真っ赤な血に染まっていた。
その見るからに痛々しい様子にさらさは顔を顰める。
「出た。ピアッサー。しかも指と指の間の水掻きに貫通させてる…何やってんのよコイツは」
赤茶色に固まった傷口をさらさは丁寧に消毒していく。
彼は暇を持て余すとこういう妙な自傷行為をする事がある。
皮膚の薄い部分にピアッサーで穴を開ける行為に強い快感を覚えるらしい。
とてもさらさには理解し難い性癖だ。
「ねぇ、痛いんだけど…」
不意に意識を取り戻した限竜がじっとこちらを見ていた。
眠っていた時の穏やかさは影を顰め、不機嫌極まりない。
「痛くしたくてこんな事したんでしょ?」
「違う。針が皮膚を突き破る感触が気持ちいいからやってるんだ」
「キモっ。あんた知れば知るほどマジで引くわ」
「更紗」
その時だった。
突然不意打ちのように髪を掴まれ、噛み付くようなキスをされた。
「ふっ……んっ……」
熱い舌が強引にさらさの口蓋をこじ開け、歯列を蹂躙し、舌を強く吸われる。
初めての大人のキスだった。
頭の芯がぼーっと甘く痺れる感覚がする。
「はぁ…はぁ。何で、こんな事…はぁ……しない約束だった…」
「更紗に嫌われたかったから」
限竜はさらさの顎に伝い落ちる唾液を舐め取ると身体を離した。
「ふっ、お生憎様ね。こんな事で今更引き下がるわけないでしょ」
「……意地っ張り。震えてるくせに」
「なっ…」
さらさはそれでも気丈に微笑んだ。
もうここで彼から逃げてはいけない。
逃げたらきっと彼は消えてしまうだろうから。
「ねぇ、話して。何が紘太をそんなに苦しめているの?」
すると限竜は俯いたまま口を開いた。
「…わかったよ。もう言わないと更紗は離れていかないよね。本当は絶対誰にも知られたくなかったのに。ずっと更紗に嫌われたいと思ったのに、何で最後までこれを言えなかったんだろう」
「紘太?」
限竜の手を取ると、その手は冷たかった。
だがそれを振り払う事はせず、彼は話を続ける。
「俺はさ、大学まで普通の平凡な人間だって思ってた。普通に卒業して普通に就職して、高校の頃から付き合ってた彼女とそのまま結婚して子供が出来てって……」
「………」
きっと誰もが一度は思い描く夢だろう。
そこに何も問題はない。
「でもさ、大学卒業してすぐの俺の誕生日に父さ…父が珍しく外でコーヒーを飲もうと誘って来た。俺は何も考えずに出かけた。でさ、そこで父に言われたんだ」
「何て?」
「自分はお前の本当の父親ではないって」
「嘘でしょ?何かの冗談じゃ…」
「そうだったらどんなに良かったか。その瞬間さ、俺が今まで家族だって思ってた魔法が解けたような気がしたよ。俺はあの家では部外者だったんだなって」
「……そんな事は絶対ないよ」
しかし限竜は首を振る。
「昔、母は俺の実父と付き合っていて、母は多分捨てられたんだよ。だけどその時にはもう母のお腹には俺がいて…。父はそれを知りながらも母と結婚した。父はそれをずっと隠していた。だけど大学を卒業する時にけじめとして話してくれたんだ。だけど、俺は…ずっと隠したままでいて欲しかった!」
限竜の瞳から涙がいくつも溢れ落ちた。
血を吐くような告白だった。
彼は母親を捨てた実父を憎んでいるのだろうか。
これが彼の抱える闇なのだろうか。
「でも立派なご両親じゃない。きっと紘太が何も知らないままなのは良くないと思って話してくれたと思う」
「違うんだ…これはそんな甘い話なんかじゃないんだ」
「えっ?」
限竜はさらさの肩を掴む。
「俺の本当の父親はね、円堂だ。円堂殉。そしてその円堂の腹違いの弟は当時小学生だった野崎教授の娘、野崎詩織を私怨で陵辱した強姦魔なんだよ」
「なっ…」
苦しそうな顔で限竜は言葉を搾り出す。
「俺は犯罪者を家族に持つ呪われた人間なんだよ。だから結婚は出来ないし、更紗に優しくされるような人間じゃない。これでわかっただろう。親族に強姦魔がいる男となんて誰が結婚させたがるの?」
「そんな…」
限竜は涙を浮かべるさらさの顎を持ち上げると、優しいキスをした。
それと同時に何か苦いものが口へ流し込まれる。
気付いてすぐに吐き出そうとするが、苦しくて唾液と一緒に飲み下してしまう。
「おやすみ。更紗。そして今までありがとう」
その言葉を最後にさらさの意識は霞んでいった。
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