第41話「名前で呼んで」

「海到着ー!海ーっ、久しぶりの海よ〜♡」



やって来たのは賑わう東京を離れた神奈川県寄りの小さな海岸。

車の往来はあるが、人の姿はほぼ皆無だ。

暦の上ではそろそろ初夏だが、時間帯も夜な上にまだ風は冷たい。


だが海岸線に沿って灯る常夜灯がキレイなカーブを描く様は幻想的で心揺さぶられる。


車を降りると限竜は一直線に海へと走り出す。一方、さらさの方はその普段とは違う彼の様子に戸惑いすら覚える。



「ちょっと危ないよ」




「大丈夫よ。あんたもこっち来たら?」




限竜は脱いだ靴と靴下を片手に持ち、海辺を優雅に歩いている。



「ねぇ、水、冷たくない?」



「平気よ。そんなの。気持ちいいくらいよ」



まるで少年のように笑っている限竜を見て、さらさは軽く息を漏らす。

そして自分もパンプスを脱いで、恐る恐る波打ち際に足先をつけてみた。

途端に肌を突き刺すような冷たさが駆け巡る。



「冷たっ!ちょっとどこが気持ちいいの?風邪ひくじゃない」



「あはははっ。まだまだ修行が足りてないんじゃないの?」



限竜はそう言って、軽やかなステップで水を跳ねながら波打ち際を歩き出す。

さらさは付き合っていられないとため息を吐き、少し離れた場所からそれを眺める事にした。



「ねぇ、あなた今のお仕事、楽しい?」



突然、限竜がそんな事を聞いてきたのでぼんやりしていたさらさは思わず顔を上げる。



「そうね……今はそう思ってる。すごく楽しいって心から思えるようになったの。でも前は違ってた。辞めたくてでも辞めるわけにはいかなくて、毎日が辛かった」



今の言葉に何かを感じたのか、限竜はチラリとさらさに視線を送る。



「それは彼氏が変えてくれたって事?」



「………道明寺さんって変に鋭いわね」



確かに彼氏ではないけれど、夕陽との出会いがあったからこそ、自分はあの生活から抜け出す勇気をもらったのだ。


夕陽が変えてくれた。

だから重荷でしかなかった親族やトロピカルエースのメンバーたちと本気で向き合う事が出来た。


想いは実らなかったけれど、彼が今でも大切な存在なのは変わらない。



「紘太」



「へ?」



「へ?じゃないわよ。二人の時は名前で呼んで。更紗」



「…何を突然に」



夕陽との思い出に浸っていたところに突然割り込むように名前呼びを要求してきた限竜にさらさは瞳を大きく見開いた。


何故かいつになく真剣な顔でこちらを見つめる限竜と視線がかち合う。



「「俺」は伏見紘太だよ。更紗」



「………」




その瞬間、どうしてなのか目の前のオネエ言葉の変人がさらさの中で「男性」に見えた。



「そんなの…そんなの……無理っ!」



さらさは顔の火照りを見られないように俯くと、そのまま彼の前から走り出していた。


そして大きな道へ出ると、タクシーを拾い無我夢中で乗り込んだ。


彼は追いかけて来なかった。

今はそれを有り難いと思った。

何故なら今の顔を彼には絶対に見られなくなかったから。


多分、彼が「男性」に見えたように、自分も「女性」の顔をしているはずだ。



「……紘太…か」



戻りのタクシーの中で呟いてみる。

まるで特別な言葉のように。

顔はまだ熱を持ったように熱い。



初めてのデートはこうして曖昧に終わってしまった。


それからお互い仕事が忙しくなり、二人が再び会うのは二週間後になる。











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