第19話「銭湯のメロディー」
「いやぁ、銭湯っていいよねぇ…。小さな湯船に同性の者たち皆で入るなんてさぁ。そんな発想浮かばないよねぇ」
塗装の剥げかけた壮大な富士を見上げながら、秋海棠一十は湯船の縁にゆったり両腕を預け、感動のため息を漏らす。
「小さな……」
「いや、全然普通っすよ。風呂は異性と入る前提で考える方がないですって」
そんな大物プロデューサーを遠巻きに見ながら夕陽と笹島は冷や汗を浮かべる。
そして何故このような場所に来る事になったのかを思い浮かべた。
「ボクさ、銭湯って行った事ないんだよね」
それは秋海棠一十の何気ない一言から始まった。
そんな話を喜多浦陽菜から聞いた瞬間、夕陽は嫌な予感がした。
以前、一十と回転寿司へ行った事があったが大変な思いをした。
主に笹島がだが。
笹島は酢飯が苦手な一十の残したシャリを大量に食べる羽目になっていた。
本来は陽菜が彼に付き合ってやりたかったというのだが、場所が場所だけに一緒というわけにはいかない。
そこで気軽に頼み事が出来る一般庶民男性の知り合いの筆頭として夕陽と笹島が選抜されたのだ。
「何とも不名誉な選抜だな」
こうして仕事帰りに笹島と合流し、一十の指定した場所で落ち合うと、都内でもかなり古い銭湯へ足を踏み入れたのだ。
「ところでここは利用に関して何か特殊なルールはあるのかな?」
「あぁ、特殊かはわかりませんが手拭いの類は湯船に浸けたりしないとかはありますね。確か繊維が詰まったりするからとか言ってたような…」
「へぇ、そうなんだ」
一十が狭いと評した銭湯は十分広く、客も疎らでガランとしている。
昔は賑わっていたらしいが、時代やライフスタイルの変化と共に利用客は減少していったようだ。
しかしタイル張りの床や磨き抜かれた湯船の曲線はどこか趣があり、夕陽には好ましく感じた。
一十は湯の中でピンと足を伸ばし、大きく伸びをした。
「そういえば、子供の頃は風呂屋で泳いだよなぁ」
笹島が懐かしそうに呟く。
彼のアフロは水気を吸って幾分膨張している。
「ええっ、いいのかい?」
「いやいや子供の頃っすよ。いくらなんでももうやらないっす」
「そうか…つまらないね」
「……まじか」
一十は本気で泳ぎたかったのか、少々残念そうに呟く。
すると笹島が何か思い出したように顔を上げる。
「そうだ。風呂で歌うとちょっと上手く聞こえるんすよ。やった事ないっすか?」
「えっ、えっ?どういう事かな」
すると一十が興味深そうに身を乗り出してきた。
「あ、ハイッす。今歌ってみるっすね」
笹島は一十に言われるままに鼻歌を歌う。
はっきり言って調子外れで歌と呼べる代物ではない。
夕陽はゆっくりと湯船から上がる。
その背後に一十の感嘆の声がかかる。
「凄い!凄いよね笹島くん。何か新しい曲のイメージが今の歌でどんど組み上がっていくよ」
「え、マジっすか?」
「うん。いいよ。もう一度最初から歌ってもらえるかな」
「ハイッす!」
その後、休憩スペースでフルーツ牛乳を飲みながら夕陽は髪を乾かしていたが、笹島の調子外れな歌声はその間も絶えることなく聞こえていた。
「いつまで歌うつもりだよ。あいつは…」
後日発売されたトロピカルエースのアルバムに収録された陽菜のソロ曲「銭湯のメロディー」は不思議なノスタルジーと不安定な音域が真新しいとシングルカットされる人気曲となった。
その裏に笹島が逆上せて倒れた影の努力を夕陽以外の誰も知る事はなかった。
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