第5話 大平山下 大山寺岩枝垂れ その一

大平山下 太山寺いわしだれ その一


 四月八日


 次の週に出向いたところは栃木の大平山の麓にある太山寺であった。


大平山の謙信平は染井吉野で有名である。


数年前にその染井吉野の咲き誇る様を見るために電車とバスを乗り継いでやってきた。


その時、帰りのバスを待っていてバス停の目の前にある寺に


しだれ桜があるのに気がついた。


残念なことにバスの時刻が迫ってから気がついたので見ることは出来なかったが


後ろ髪ひかれる思いでバスに乗った。


その心残りがずっと後まで尾をひいた。


機会があったら是非、行ってみたいと心に刻んでいたのである。


余談だがこの太平山は夏の紫陽花でも有名である。


山頂の大平山神社へ登る千段の階段の両脇に紫陽花を見ることが出来る。


なかなか絵になる風景である。


というわけで今回は謙信平の染井吉野には目もくれず


目的の太山寺の枝垂れを見ることにした。


今回は車で来た。


境内に車を入れても良いようで数台の車が止まっているが場所は空いている。


ガイドブックに載っていないというのが良い。


一度そういう類のものに載ってしまうとすぐにバスツワーの客が占領してしまう。


静かに桜を愛でないでこの場に関係の無いおしゃべりをしている輩が多くて


耳障りとなり絵に集中出来ない。


中には私が絵を書いているのを知っているのか知らないのか


目の前で立ち止まっておしゃべりを始める人がいる。


私は一度決めた場所はスケッチが終わるまで動くわけには行かない。


なぜなら一歩動くと枝の重なり具合がずれて


どこを描いているのかわからなくなるからである。


そうでなくても枝垂桜の場合は枝が密集して重なり、手前の枝なのか後ろの枝なのか、


はたまたその枝が上に伸び、下に伸び、どの枝と交差しているのか


注意して書かないと滅茶苦茶になってしまう。


どうせ後で薄桃色に塗りつぶすのだからどうでも良いという訳にもいかない。


手前の枝と後ろになる枝はしっかりと書き込んでおかないと


見られないものになってしまう。


いつも絵を描きながら思うことだがまるで方程式を解いているような気がする。


(X-y)の括弧の中を先に解いてからZの二乗を云々・・・なんて、


まるでこの枝を先に描いてから下の枝をここへ書き込み


、途中まで書いておいた左の枝がこっちに来て・・・と


こんなこと考えながら絵を描いている私っておかしいかな。


さて、このいわしだれ桜だが・・・ちょっとばかりがっかり。


せっかく咲く頃を計算してやってきたのに盛りは終わっていた。


わずかに白めの花びらが残っているところに葉が出始めている。


糸のように細い枝にまばらに花びらが残っていて向こうが空いて見える。


樹形は良くわかるがなんだか恋焦がれてきた恋人に振られた気分で


落ち込んでしまった。


仕方ない。


桜を追っている以上つきものである。


中には電話で確かめればという人もいるがあんまり好まない。


計算されない出会いが楽しいのである。


今週はここへ来ると予定した以上、咲いていないとわかったとしても


この目で確かめなければすまない性分なので出かけては来る。


電話や他の方法で花の咲き具合をたしかめるのは


どうしても見てみたい候補が二箇所以上ある場合である。


三月に入った頃、私は自分の休日と桜の先具合を計算しながら予定を決める。


暖かい年と寒い年では桜の開花は一、二週間ずれたりする。


年によっては休みのたびにずっと良い状態で桜を見られる場合と見られない場合がある。


天候もある。


雨が降ったり、風が吹いたり。


一応、予定した場所には出かけるが桜を見るだけが目的ではないので


スケッチできないときは心残りである。


でも、私は出かける。


桜が私が描きたい姿をしているか、何か心を揺さぶられるものがあるかを


確認するために。


ガイドブックや人に聞いた場所にやっとの思いで出かけても、


そこら辺の庭先にあるような細い枝垂桜だったりするとものすごくがっかりする。


あまり良くわからない情報の場合は条件の悪い日に出かけることにしている。


たいしたことも無い桜だったらがっかりするからである。


どうしてもスケッチしたい桜だったら翌年に挑戦すればよい。


楽しみが増えるというものだ。


という訳でこの大山寺の岩枝垂れは来年にでももう一度見に来よう。


写真と違って絵の場合は満開に描くことも出来るのでスケッチはしておく。


幹の形や枝の重なり具合でスケッチする手が勝手に動く場合がある。


描きやすい樹かそうでないかは真っ白なスケッチブックを広げ、


その上に鉛筆を持ってみて初めて分かる。


描きたくてスケッチブックを広げてもなかなか描くとっかかりを


決められない場合もある。


あっちへ動いてみたりこっちに動いてみたりと場所探しに時間をとられることが多い。


また、それも楽しいのだが・・・


この樹はスタイルがよくて描きやすい。


収まるところに収まってデンと構えているという感じだ。


今回はスケッチは一枚にして奥の方にある白モクレンの花を描く事にした。


丁度居合わせた寺の関係者らしき人に枝垂れ桜の開花時期を聞いてみた。


だいたい関東の染井吉野の咲く時期と同じだと教えてくれた。


私の読みが間違っていたらしい。


枝垂れ桜見物の初心者の私はなぜか漠然と染井吉野より一週間遅れと考えていた。


そういえば川越の中院の枝垂れ桜は開花がずいぶんと早い。


一つ勉強になった。

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