第2話 静けさに生きる

 いつもより遅い帰りのことだった。駅から出た信号待ち。一匹のセミが鳴いた。もう鈴虫が鳴いている秋半ばのことだ。


 皆はセミが一匹だけ鳴くのを聞いたことがあるだろうか。その日は秋が夏だった頃を思い出したかのように、数日ぶりに太陽が照りつける日だった。日も暮れ、雲も広がり、あたりはすっかり暗くなっていたが、肌を舐めるような生温かさが残っていた。


 そのセミは電柱か、その横に生えた一本の街路樹で鳴いているようだった。数が集まればあれだけやかましいセミの声は、どこか静かだった。それは単に私がセミ一匹だけがなく様子を聞いたことがなかったからなのか、それともセミも大毛を上げるほどの力が残っていなかったのか、それとも独りであることに気づいた悲しみ故の声だったのか。セミの声は雲に覆われた暗い夜の世界に静かに響き、鈴虫の音と調和さえしていた。


 運のいいことに、その交差点は車一台通らなかった。ただセミと鈴虫と暗闇がつくる静けさだけがそこにあった。


 私はセミの姿を探したが、暗くて見つけられないままでいた。セミは夏の時と同じ鳴き方から、徐々に弱々しい声に変わっていき、っして信号が変わる前に鳴き止んでしまった。私はついぞセミの姿を見つけることができなかった。他の信号を待っている人はただスマホを触っているだけだった。私は彼らと違う世界にいた。


 セミは鳴き止んだが、静かな世界は変わらずそこにあった。セミの声があってもなくても、その世界は変わらなかった。信号が変わり、私や周りの人たちは歩き出した。静かな世界に、足音が加わり、小刻みにリズムを刻んだ。足音が加わっても、そこは静かな世界だった。


 道を渡り切ってもセミの声が再びこの世界に響くことはなかった。私は私の世界の中を歩いた。風が木々を揺らし、木の葉が擦れる。自分の足音がする。虫が鳴く。それらは皆静かに響き合っていた。


 あの時、私はセミと同じ世界にいた。セミの声と私の足音が同時に響くことはなかった。私がセミの姿を捉えることもなかった。それでも私たちは同じ世界にいた。


 程なくして、別の交差点に差し掛かった。一台の車が目の前を通りすぎた。その音に、私は静けさの世界から呼び戻された。ふと顔を上げると、雲はどこへ行ったのか、周りの星をかき消すほど明るい月がいた。道端の家から子供を叱る声が聞こえた。歩く私の隣を配達のバイクが追い抜いて行った。そこに調和はもう無く、ただいつもの世界が何食わぬ顔で鎮座していた。


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