エッセイ集

有縺鶸

第1話 空が泣いている

 父とスキーの話題になった時だった。


「行けて今年、来年くらいかなぁ」


 ふとしたその父の言葉に驚きながらも、そうか、とどこか納得する自分もいた。嫌だな、とも思った。ただ、悲しいとは感じなかった。


 私の一家は毎年年末から正月にかけてスキー旅行に行くのだが、そこで毎年泊まるペンションがある。老夫婦が経営しており、奥さんがオーナー、ご主人がマスターと呼ばれていた。それが経営形態によるものなのかは知らないが、物心ついた時からそうだった。


 その時期にこのペンションに泊まる家族はほぼ固定化されていて、それぞれ下の名前やあだ名で呼び合うような仲だった。親戚一同が会するような行事のない私にとって親戚替わりのような人達だ。呼びかけて集まったのか、自然とそうなったのかは知らない。これも物心ついた時からそうだった。つまり、これらは全て自分の中では当たり前だったのである。


 年末になれば長野へ行き、みんなで集まり、オーナーとマスターの元で美味しい料理をいただき、スキーを滑り、共有スペースのコタツに入り子供同士で遊びながらみかんを剥く。その後ろで大人たちは酒を飲みツマミを食べながら紅白を見る。子供たちは時折酒臭い息の間を縫ってツマミ用のスルメイカを頂戴する。これは毎年のことで、当たり前のことで、いつか無くなるものとは夢想だにしなかった。


 2年以上前のことであろうか。オーナーが亡くなった、との報せを聞いた。


 マスターを元気づける意味もあって、ペンション業は閉じていたが、例のイツメンで年末に集まった。マスターに負担をかけないよう、料理はそれぞれの家族が交代で受け持った。そこにはいつもの元気でまさにイケおじとも言うべきマスターの姿はなかった。まだ身近な人を亡くした、という経験のない自分は漠然と、そういうものなのだろう、と感じていた。


 2日目の朝だった。マスターは小ぶりのお茶碗に入ったご飯と味噌汁だけを朝食にしていた。トーストに卵料理、サラダ、バナナ、デザートのヨーグルトなどといったものがこのペンションでのいつもの朝食であり、もちろんこの特殊な状況でメニューが変わるのは何も不思議ではなかったが、その量の少なさに驚いた。マスターはヘラヘラと笑って、「俺にはこの程度で十分だよ」と言っていた。


 朝食を食べ終え、食器を片付けているときだった。当然洗い物も分担であり、私は初めて厨房に足を踏み入れた。へえ、こんな感じになってたんだ。そう見渡していると、食べ終えたのか、マスターが茶碗をもって厨房に入ってきた。マスターは私と母に軽く厨房の説明をしてくれた。椀にはまだ味噌汁が半分以上残っていた。説明を終えるとマスターは椀を返し味噌汁をシンクに流した。ぼとぼと、と具材が力なくシンクに散らばった。それらは直ぐに水で排水溝へと流されていった。


 初めてこの世の無常を感じたのは、飼い猫が死んだ時だった。当時の自分は阿呆で、飼い猫が高齢になり動きが鈍くなったり咳き込むことが多くなっても、そんな死がすぐそこまで近づいてきている訳でもない、と根拠もなく考えていた。もしかしたら目を背けたかっただけなのかもしれない。


 それは、私が風呂に入ってる時にやってきた。いつも通りリビングでテレビを見、夕方頃家族に促されて風呂に入った。風呂から上がると父も母も兄も飼い猫の巣——猫ハウス、というのだろうか。それがある方に集まっていた。不思議に思いながらそちらへ行くと、死んでいることを告げられた。初めは訳が分からなかった。ただ寝ているだけなのではないか、とその体に触れた。信じられないほど硬く、冷たかった。兄だったか、母だったかが咎めるような目でこちらを睨んだ。どうして、と思った。私は信じられなかったのだ。あまりにも現実味がなかった。触ることで何かがわかるような気がした。ただそれだけだった。


 身近な人を亡くした経験のない自分は、ただ漠然とドラマのように死に際には家族や親しい人がその人を囲むものだと思っていた。実際には、その時私は呑気に1人風呂に入っていた。鼻歌も歌っていた。もしかすると、テレビを見ているあの時既に亡くなっていたのかもしれない。少なくとも確実なのは、私はその時に立ち会えなかった。


 その後のことは途切れ途切れに覚えている。ペット用の火葬場に行き、骨を砕き、コンビニで飯を済ませた。兄とたわいもない会話をした気もする。骨を砕く際落としてしまって怒られたような気もする。ただ今思い返しても、その記憶に感情が乗らなかった。楽しかった思い出や恥ずかしかった思い出などというように、思い出には感情が乗る。これは悲しかった思い出であろうか?わからない。多分違うと思う。そこに悲しみは恐らくなかった。紐づく感情が何も無かった。


 悲しみとはなんなのだろう。特に別れに関して、私はおそらく、1度もそれを感じたことがない。卒業式などで泣く人の気持ちがわからなかった。友人が転校する時も、部活を引退する時も、悲しいとは思わなかった。


 そしておそらく、猫が死んだ時も、オーナーが無くなった時も、悲しみは感じなかった。ただそこには虚しさと虚脱感とやるせなさだけが存在していた。心にぽっかり穴が空いた、という表現がまさにあてはまった。


 という。感情が堰を切るという。だからきっと、別れの場で泣くのは、悲しくて泣くのは、心をつきやぶる感情があるからなのだろう。悲しみが膨れて溢れて止まらなくて、心から涙がこぼれるのであろう。私はその逆だった。溢れる感情も悲しむ心も、何もかもを飲み込んで無に帰すからだけがそこにあった。涙はこぼれなくて当然だった。


 ふと外を見れば雨が降っていた。空が泣いている。誰かが言った。嘘だ、と思った。あれは空から溢れ出た涙ではない。悲しみが零れ出した何かでは無い。私の心に流れ込む何かだ。雨が側溝に流れ込むように、私の心に空いたこの大きな穴に流れ込む何かだ。真空が空気を吸いこむように、私の心に空いた穴が呼びこんだ何かだ。雨は降り続いていた。それでもこの心は埋まらない穴に占領され続けていた。

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