2――米州公方府

 その日、適差洲日向須頓の米州公方府は、米洲島津家寄騎五万に包囲されようとしていた。

 この頃、豊臣幕府は米洲大陸の支配を完全なものにしようとしていた。その反面、

米洲の幕府御家人に対し苛烈な支配が行われていた。幕府が命じた重税の取り立てにより、困窮する御家人は数多く、その多くが欧羅巴人との戦いで多くの勲功を打ち立てた島津家を頼っていた。


 島津家は豊臣に弓を引く訳にはいかぬと、御家人達の要請を断り続けていた。


 しかし、米洲公方豊臣秀親の乱行は続き、ついに島津家は秘密裏に御家人衆を纏めあげるとともに、鉄砲や大筒を集めた。


 米洲豊臣家が御家人衆を軽んじてきたツケを、今支払わされる時が来ようとしていた。


「島津中務大輔武尚、これより豊臣の御家に謀反をば致し奉る。我ら吉野の帝をば頂き、豊臣秀親が御首級みしるしをば獲る」


 桑港洲島津屋敷に深夜参集した島津家郎党や有力御家人衆の前で、武尚は珍しく重々しい表情で告げる。


「これは豊臣秀親の主上御謀反しゅじょうごむほん、主上御謀反である。以降、そう心得えられよ!」


島津家に「謀反」を迫った筆頭御家人である毛利長康は、そう大声で叫ぶ。


――謀反ではなく、主上御謀反。物は言い様じゃな。


そう思いながらも、島津家の若者は文句を言わない。


政治向きなど面倒で敵わない、そう思っていた。


#100文字の架空戦記


※筆者注 

◆主上御謀反

「天皇御謀反あるいは天皇御謀叛(てんのうごむほん)は日本史の用語。天皇あるいは上皇が武力を用いて権力の奪取をはかる行為を言う。主上御謀叛・当今御謀叛とも(ウィキペディアより引用)」

――転じて(武家においては)主君の御乱行を止めるために部下が結託して「主君押し込め」(監禁)する時や、クーデターをする時にこの言葉が用いられたという(高宮設定)。

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