第10話 黄昏の森に蠢く 七
クラは叩きおわると、静かにさくら姫を降ろす。
両の尻を手で押さえたまま突っ伏したいが、さくら姫の意地がそれを堪えた。
とはいえ、その堪えた姿は内股で中腰であり両の手は尻を押さえている。あまり格好の良いものではない。
その姿をクラは鬼の形相で両腕を組みながら仁王立ちでみている。
平助は流石にどうしていいか分からず動けずにいた。
しばらくして痛みが一段引いてきたのか、さくら姫はゆっくりと背筋を伸ばし立ち上がる。しかしその顔はまだ痛みを堪えていていた。
その様子を見ながら、クラがさくら姫に問いかける。
「なぜ叩かれたか、わかるか」
「……」
「退くべき時に退かなかったからだ」
「……」
「退き時を違えると、さら殿があぶなくなるだけでなく、平助までもあぶなくなる。あやつは確かにさら殿の使用人かもしれん、使用は
クラの言葉を黙って聞いていたさくら姫だが、しばしの沈黙のあとクラを きっと睨みかえし、
「蔵人殿の言うとおりじゃ、わらわが悪かった。すまぬ」
と頭を下げた。
それを見て平助が唖然とする。
あの負けん気の強いさくら姫が頭を下げている、謝るくらいなら折檻を選ぶくらい気の強い姫がである。
クラはしばらく黙っていたが、おもむろに、
「うむ、わかればよろしい」
そう言い、顔を和らげ腕組みをほどいた。
いつもの柔らかい顔に戻ったクラに、さくら姫はあらためて言葉を続ける。
「だが、それはそれ これはこれじゃ。あ奴らは何者じゃ、なぜ死なぬ、あそこは何じゃ、クラは知っているのか、なにを知っている」
さくら姫の言葉に、クラはふたたび憤怒の顔になる。
「まだ分からんか、あそこはお主のような者は知らぬでよいところだ」
さくら姫も負けていない。
「そうはいかぬ、わが領にあのような所があるとは父上も爺も言わなんだ。わらわは知らねばならぬ」
「大きく出たな、どんな大店か知らぬが、そなたのような者が知らぬでもよいわ」
「大店ではない、父は白邸領の領主、瀬鳴弾正、爺は筆頭家老の瀬月じゃ」
「姫様ぁ」
最後の言葉は平助であった。ふたりの言い合いを見ていたが、頭に血が上った さくら姫がつい言ってしまったのを慌てて止めようとしたのだが、すでに遅かった。
「言うにことかいて、御領主様の名を騙るとはなにごとか。なにが瀬鳴様の娘じゃ、ましてや瀬月様を爺あつかいとは……」
そこまで言ってクラは言葉を止めた。そしてまじまじとさくら姫を見る。
「……え、さくらさま ……」
「おおよ、瀬鳴弾正が娘、瀬鳴さくらじゃ」
その言葉に平助は、もうどうにでもなれという顔になっていた。
クラは平助の顔とさくら姫の顔をかわるがわる見る。
その雰囲気で さくら姫は やっと自分が何を言ったかに気がついた。そして、こほん と咳ばらいすると、平助に傍に来るように言う。
平助は近づき膝をつくと、何やら懐から ごそごそと取り出す。それは
それをさくら姫に手渡すと、さくら姫は袱紗の包みを開ける。出てきたのは
クラの目の色が変わる。
俗に[一芸に秀でた者は百芸に通じる]という。
クラは刀鍛冶として名の知れた腕前である。道は違えど職人の腕前の良し悪し、出来の良し悪しは、ある程度わかることができる。印籠の造りは、かなりのものであった。
さぞかし腕のいい職人のものであろう。
何よりも印籠の表にある家紋だ。
金泥で描かれたそれは、丸の中に川瀬の意匠で、手前の岩にぶつかった
間違いない。本物の瀬鳴家の物であり、これを持ち歩くのは確かに瀬鳴家の人。
クラの様子を見て、さくら姫はあらためて自らの正体を告げる。
「今まで身分を偽ってすまなかった。わらわは白邸領の領主、瀬鳴弾正が娘 瀬鳴さくらじゃ」
そう言って頭を下げ礼をした。
クラは黙って呆けている。続けて平助が話す。
「蔵人どの、
片膝をついたままの姿勢でクラに正し、頭を下げる。
クラはさらに呆然とする。あの朗らかで明るい平助が、武士の言葉で正しく礼をしたのだ。
しかもその物言いで言い慣れているのも分かる。
さくら姫はあらためてクラを問い詰め寄る。
「クラ、こちらは全て話した。今度はそちらの番じゃ。あ奴らのこと、あの森のこと、話してもらうぞ」
さくら姫の言葉に我に返ったクラだが、
「ち、ちょっと待ってくだされ…」
と戸惑ったが、さくら姫は容赦しない。
「いーや待てぬ、話してもらうぞ」
先程のお返しといわんばかりに詰め寄った。
「さら殿、いや、さくら様、そればかりは……」
クラは、しどろもどろになりおよび腰になる。冷や汗も出てきた。しかしさくら姫はさらに詰め寄る。
「話せ、クラ。そちは領主の娘を担いで荷物の様に扱い、なおかつ尻を叩いたのだぞ」
言われて、あらためて血の気が引き浅黒い顔が蒼くなる。
武士なら切腹どころか打ち首。職人の自分なら有無をいわさず
「これらの無礼を帳消しにしてやる。だから話せ、お主の知っていること全部じゃ」
クラは膝をつき、土下座する。
「さくら様、お許しくだされ。故あってどうしても話せませぬ」
必死に土下座するその姿をみて、平助はこれは無理だななにやらかなりの訳があるようだと思ったのだが、さくら姫は止まらない。
「だからその言えぬ訳を話せと言うのじゃ」
「お赦しくだされ、お赦しくだされ」
さくら姫は怒りはじめる。
「この……」
さくら姫が次の言葉を言おうとしたその時、土下座のままのクラが動かなくなった。
「おっさん、どうしたおっさん」
様子に気がついた平助がクラに近寄り声をかける。さくら姫も近寄る。
よほどクラは進退窮まったのだろうか、豪快で大らかで頼もしいクラが気を失っていた。さくら姫と平助は顔を見合わせる。
「おっさんが気を失うなんて……」
「クラほどの剛の者がこうまでして言えぬとは……」
さくら姫は先ほどまでいた森を見る。あれほど恐ろしい事があったとは思えぬ初夏の緑が眩しい普通の森だった。
さくら姫はまだ気づいていなかった。自らの運命を変える出来事に関わってしまったことに。
そしてそれは白邸領、いやその身とこの世に関わることなのだと──。
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