第70話 心配事とスタインの焦り

「どうしたんだ。記憶が戻せるんだよ」と念を押しても、二人は押し黙ったままだった。暫く俯いていた康子が静かに口を開いた。

「記憶が戻って、もしも晴夫に敵対したらどうするの」と。

「ああ。俺もそれが心配だ」と小林も口を開いた。

「僕が大丈夫だったんだから」と言っても、二人は首を縦に振らなかった。


「俺たちの本来の姿は今の時点では想像もつかない。だからこそ、今は戻す時ではないと思うんだ。正直に言って、僅かばかりだが記憶が戻りつつある。それがどういう反応を起こすか怖いんだ」と小林は普段、見せもしない弱さを曝け出していた。僕が記憶を取り戻し、二人を騙す形を取ったことは記憶に新しい。彼らの身にそれが起きないとは限らない。そう言いたいのだろう。


「わかった。無理強いするつもりはないよ」

「ああ。すべてが片付いたら戻してくれ。今はそれでいい」

「康子もそれでいいのか?」

「ええ。わたしも同じ考えよ。すべてが収まったら……ね」と康子が疲れた笑いを浮かべると、

「でもこれだけは約束しろ!」と小林が急に大きな声を出した。


「なんだ?」その声に戸惑いつつも僕は訊ねた。

「すべてが終わって記憶を戻した時、お前に敵対したら俺を殺せ」

「な、何を言ってるんだ!」と僕は本気で怒った。

「いいかよく聞け。お前に敵対した時点で、俺と言う存在はもはやこの世にはいないんだ。見てくれだけの人形に過ぎん。お前や王女に害になるなら、遠慮くなく排除しろ」そう言う小林には確信があった。


王子の分身である僕を、カモフラージュの為とは言え実行部隊に配置した。そうなれば当然のこと、その王子の分身を守る護衛が必要だろうと。それが、自分や康子だと考えていたのだ。そうなれば、二人は王子の側近である可能性が高い。或いは、絶対的な忠誠を誓っている者の恐れもあるのだ。


「そんなことできるわけないだろ!」

「いや。しなくちゃだめだ。そして俺を、小林という人間を静かに眠らせてくれ」と小林の語尾は小さくなった。その気持ちは康子も同じようだ。同調するかのように静かに頷き涙を流していた。そんな二人にかける言葉もなく、


「い、今は保留にしておいてくれ」とだけ伝えると、僕はその場を足早に去った。実際、現状において二人の記憶がなくても何の問題もない。無駄なリスクを侵す必要はない。けれども、記憶の戻った後のことは、想像の及ばぬところだ。たまたま僕だけ運が良かったのかも知れない。そう考えると小林と康子があんな態度に出ることは理解できる。だが、理解できるが受け入れることは到底無理な話であった。



「いったい、どこへいったのだ!」とスタインは報告に能われた兵士に怒鳴った。スタインの命により近郊の街や農村を探させてはいるが、有益な情報がもたらせられないことに憤りを感じていた。捜索網は東海、信州、東北方面へと広げているが、一向に網に掛からないのだ。この捜索には王子の命とは別に、スタインの今後を左右する結果も含まれている。だからこそ血眼になっているのだ。下手をすれば失脚しかねない結果が。

王女の手に落ちた警戒所にも、スタインからの連絡はあるが、彼らは平然と『異常なし』と伝えていた。そのこともあり、スタインはどこかに隠れていると思い込んでいた。

「山奥や人のすまない地域も探せ!なんとしても見つけるのだ!」とスタインは絶叫した。

そんな基地内の狼狽ぶりが広がるにつれ、不穏な空気も流れ始めていた。特に多くの仲間が寝返った実行部隊の兵士の間で、選択を間違えたのではないだろうか。との陰口も囁かれ始めた。噂は人間界とも同様で、少しずつだが、確かに、静かに基地内に浸透していった。

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