第5話 君のせいだよ
確かに不思議な経験はしたが、その後は平穏な日々が過ぎ、あの日の記憶は日を追うごとに薄れていった。そして代わり映えのしない学生生活が続き、今日も退屈な講義に追われている。
次の講堂に向かうとき、廊下で康子が男と話しているのが見えた。学年でも有名な色男である。ところが康子の顔は明かに辟易としているようだ。普通の女学生ならば笑顔で話すであろう相手に、康子は素っ気ない素振りを見せていた。僕が近づくのに気が付くと、康子は一言何かを告げてから僕のほうに走り寄ってきた。
「どうしたんだ?」僕は康子の行動を不思議に思った。
「あいつ、しつこくて……それに……」と、康子は横眼でその男を睨んだ。当然のことその男はそんなこととは知らずに、すぐに違う女の子に話かけていた。
「お前の趣味ってわかんないよな」僕は率直に言った。
「そんな気持ちになれないだけ」康子はどこか寂しそうに答えたが、それを追求する気は僕にはなかった。僕と腕を組み男の前を通り過ぎると、
「今日もバイト?」と康子が尋ねてきた。
「いや、今日は休み」
「次郎君も?」
「ああ。二人とも休みだよ。講義があるからそろそろ来る頃だと思うけど……」
「じゃあ、今晩飲みに行こうよ」と、キラキラと輝く目を向けた。
「いいよ、小林が来たら伝えておくよ」
「うん、じゃ、またね」と康子は嬉しそうに走り出していった。僕はさっきの男を振り返って見た。どう考えても僕とは雲泥の差がある。それほど、男から見ても整った顔つきでおまけに背も高い。僕は可笑しくなった。平々凡々としている僕でも彼に勝てたような気がしたからだ。そしておのずと笑いが込み上げてきた。どんな理由にしろ、康子はあいつより僕らを選んだ。それは康子の嬉しそうな顔がその証拠だ。
待ち合わせ場所は渋谷のハチ公前に決めた。小林も康子も時間通りに合流し、僕らは繁華街へと足を向けた。康子を真ん中にし、僕らは腕を組んでスクランブル交差点を足取りも軽く歩いた。『幼馴染もまんざらではないな』と僕は考えていた。
康子とどうこうなるつもりはない。ただ、康子にしても小林にしても幸せにだけはなってほしいと考えていた。それこそ、僕の幸せよりも優先的にだ。
「なに?お洒落なお店じゃん」案内した店に入ると康子は目を丸くした。普段は居酒屋などが主であり、今日もそんな気持ちで来たのだろう。間接照明と静かに流れる音楽。丁寧な接客係に煩くない客層。まさに洗練された店だった。
「どうしたんだ?」小林も少々驚いているように、初めて見る店内の雰囲気に驚きの目を向けていた。僕だって初めての場所。ネットで調べて見つけたのだ。
「まぁね。ちょっと今日は気分が良くってさ」と僕は素知らぬ顔で答えた。そんな僕を、二人は不思議そうに見ていた。
「まぁ、たまにはいいだろう?こういう店でも」と何かと追及される前に僕が言うと、康子は激しく首を縦に振った。
「ひぇー、値段もすごいぜ」メニューを見ていた小林が言った。予想通り、彼の驚きはそこにも向いたようだ。
「今日は奢るよ。好きなもの食べて」と言うと、
「ラッキー」と小林は大げさに喜びを表した。
「嬉けど、どうしたの?」と康子。そんな康子に向かって僕は笑顔で頷いた。『気分がいいのは、康子、君のせいだよ』とは口にはしなかった。色々と食べて満足した僕らは、少しの酔いも回って店を出た。美味しい料理とお店の雰囲気の余韻を楽しむかのように、三人で辺りをブラついた。まだ街はたくさんの人で賑わっている。
中にはすでに泥酔している者もいた。そんなとき、通りがにわかに騒がしくなったと思うと、怒鳴り合う大声がビルの間にこだまし始めた。
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