第4話 声

 夕方からのバイトに向かうには、まだ時間も早い。だからと言って行く当てなどあるはずもなく、黙って歩き続けた。そう、あくまでも散策に出ただけだったからだ。

そして思いもよらぬ衝撃の場面に出くわした。小雨の降り続く中、老人に差し出した傘を見上げた時、僕は思った。


『あの老人は、この傘を見上げて何を思ったのだろうか』と。ただ、傘を差しだし雨を防いでくれたことへの感謝か。或いは、気にかけてくれる存在への希望か。野次馬ではない一人の存在に感動しただろうか。老人の感謝の言葉には何が込められていたのだろうか。


そんなことを考えている時、ふいに誰かの声が聞こえてきた。『こっちだ』その声に僕は恐怖を感じなかった。言われたまま声のするほうに歩いていくと『こっち』。まるで道案内でもしてるかのように、曲がり角に差し掛かるたびに、声が聞こえた。三度目の声が聞こえた時に、その声の主があの老人ではないかと思えた。そして、とある家の前で『ここだ』と声は伝えてきた。僕は躊躇することなく呼び鈴を押した。対応に出た人物は、見たことのない若い男が立っていたので驚いたのだろう。


「どちら様?」ドアを開けた高齢の女性は怪訝そうな眼付きで僕を見た。詐欺や強引な勧誘など、巷ではいまだに噂に上るご時世だ。致し方のない事だろう。

「いままでありがとう」僕の口から無意識にその言葉が飛び出した。

「なんのことですか?いたずらならば警察をよびますよ」当然の反応だとは思うが、明らかに不審者扱いだ。僕はことの成り行きを聞かせた。半信半疑だったその人は、今にも怒りそうな形相に変わったかと思うと、いきなり大声で叫んだ。


「からかってるの?ふざけないで頂戴!」彼女が信じたくない気持ちは分かる。それでも僕は慌てて今しがた見てきた老人の容姿や服装を伝えた。すると、目の前の人物の顔から血の気が引いていくのが分かった。もしかしたら、散歩にでも出かけた御主人を送り出したばかりだったのだろうか。服装を言い当てられた時、明らかに動揺する素振りを見せた。


「まさか……」そう呟く目に前の人物はその場に力なく座り込んだ。

「すません。事実です。でも穏やかな顔でした」そう伝えると、その人はボロボロと涙を流し始めた。不思議なことにそんな彼女の姿を見ても、僕の心は全く動かされなかった。その時、さっきの警官が現れた。

「あれ?住所わかったの?」僕の姿を認めるとこう言ってきた。

「ええ。知ってる人だったことを思い出しまして」僕はそう言って胡麻化した。まさか、声に導かれてやってきたなどとは言っても信じないだろう。


「で、伝えたのだね」泣き崩れる人物を見ながら警官は言った。

「はい。最後の言葉だけは」

「そうか、では後はこちらで引き受けるので、君は帰りなさい」

「ではお願いします」まるで子供にでも言い聞かせるかのような警官の口調にさえ、何も感じなかった。ただ、今はこの不思議な出来事に気を取られていた。


『あの老人はこれで満足してくれただろうか、迷わずに成仏できるだろうか』と心配で仕方がなかった。特にいままで宗教などとも深いつながりのなかった僕にしてみれば、ここまで考えるだけでも不思議なことだ。

そして導くように囁いていた『声』なるものも、本当の声だったのかは分からない。単なる思い込みだと言われても否定できない。それでもその『声』によって老人の家にたどり着いたのは否定のしようがない事実である。

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