第3話 恐怖と勇気は紙一重

 大学の近くは都内には珍しく緑もある地域だけど、少し離れれば立ち並ぶ高層ビルをも見れる場所で、隣接する幹線道路の交通量も多い。

けれども表通りから一歩裏道に入れば、どこか懐かしさを感じるこじんまりとした路地が並び、過去と現在が同時に時を刻んでいる。看板の色も褪せた昭和の香りのする洋品店の隣に、レンガで飾られたお洒落なマンションが並ぶ新旧ごちゃまぜ街。

でも、いつかは一新されるのだと思うと、正直な気持ち寂しくもある。


そんな街を当てもなく歩いていると、昼近くには激しい雷雨になった。予報では小雨のはずだった。そして予報を信じた僕の手には安物の小さい傘。この雷雨だとズボンはずぶ濡れになるだろうな、と考えていると憂鬱さに拍車がかかり、散策に出たことを後悔し始めていた。『やっぱり雨は嫌いだ』と。

やがて見つけたコンビニに飛び込み、雑誌の並んだ棚の前で立ち止まった。こういう場合、どこにでもコンビニのある都会は流石だ。


小降りになるまでの時間潰しでしかないが、雑誌はどれも惹き付けるような見出しもなく、すぐに棚から立ち去った。考えてみれば、僕には特に趣味などないことがわかった。大学生ともなれば、車だ、スキーだ、サーフィンだと、色々な趣味を持つのが普通のように思われるだろうが、僕には一切、そう言った類に興味を見いだせなかった。サッカーに全身全霊を掛けられる弟が羨ましく感じるほどだ。


そろそろ昼飯時ということもあり、コンビニ内は混んでいた。お弁当売り場の前には数人が品定めをし、サンドウィッチやおにぎりの前にも人だかりができていた。何故かそんな人々が滑稽に見え、僕は何も買わずに店を出ようとした。雨は相変わらず激しく路面を打ち続けてはいるが、ここに居るのが何故か場違いに思えたのだ。


その時、店の前からかなり大きな衝撃音が聞こえてきた。

急ブレーキの軋む音と衝突音からも事故だと思えた。野次馬根性というわけではないが、僕は咄嗟に飛び出した。見ると丁度コンビニの前で、老人が車と電信柱の間に挟まれていた。

『だめだな、こりゃ』そんな声が野次馬の中から聞こえたが、僕の足は止まらなかった。遠巻きに囲む人の群れをかき分けてゆっくりと老人に近づくと、僕は自分の安物の傘を老人の上に差し出した。何故か雨に濡れている姿だけが、気になったのだ。

運転手は顔面蒼白になりながらも、携帯から救急に電話をしているようだ。聞こえるその声は明かに震えるか弱い声であった。


「ありがとうよ」老人は傘を見上げると、事故のことなど気にしていないような口ぶりで僕に言った。それとも、本当に気が付いていないのだろうか?と思うほど自分の身に起きたことに動揺はしていないようだった。


「いえ、大丈夫ですか?」見るからに大丈夫そうではないのに、僕はそう言った。

「どうなんだろうな。感覚がないんだよ」老人はそう言って力なく笑った。

どうやら電信柱と車に挟まれているところは、圧迫され出血も少ないようだ。

だからこそ、痛みも感じないのかも知れない。そうなると、救出のために車を動かした途端、息絶えることになるかも知れない。僕はこの時、不思議と冷静な気持ちで老人を見ていた。初めて間近でみる死に対して、恐怖もなにも感じなかった。ただ、何かの義務感でもあるように、老人に対して尋ねた。


「何か、お願いがありますか?」すると老人は暫くの間、黙って僕の目を見ていたが、やがてその質問に自分の死を悟ったかのように口を開いた。そして、

「妻に礼を言ってくれ。今までありがとうとな。それだけだ」と言った。


「わかりました。お伝えします」僕が答えると、老人は待っていたかのように力なくボンネットの上に身を伏せた。自ら死を受け入れた老人の顔は穏やかだった。僕は差し出した傘をたたみ、静かに老人に向け頭を下げた。

それから野次馬の中に紛れ込み力なく座り込むと、ガタガタと震える自分に気が付いた。さっきまで冷静に対応していた自分の姿とは雲泥の差だ。どうしてあんな行動がとれたのか、それが不思議であり恐怖の源だった。


「にいちゃん勇気あるな」そんな声も掛けられたが、僕は黙って下を向いていた。本当ならばすぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちで一杯だ。けれども老人との約束が僕の動きを止めていた。ただ、約束は守らなければ。それだけを考えていたのだ。警察が到着すると、想像通り僕は事情を聴かれた。そして、老人の最後の言葉を伝えるために、彼の住所を警官に教えてほしいと頼んだ。


「こちらからお伝え出来ますが」と警官はそっけなく答えた。

「いえ、約束したのは僕ですから」

「それならば致し方ないのでお教えしますが、まだ判明していないので、わかり次第ご連絡します」とのことだった。どうやら身分を明かす所持品がないらしい。見ず知らずの老人の最後の言葉を授かった若者。警官も不思議に思っただろう。警官に携帯の番号を教え、僕はようやくその場から解放された気分になった。


当然のこと、食事などは喉を通らない。昼食時だが食欲もなく、僕は黙って歩き続けた。雨はまだ降っているが、まるであの老人のあの瞬間のために雷雨になったのではないかと思うほど、今はシトシトと降る静かな雨だ。



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