第47話 後悔と懺悔
(ふん……少しは反省したか、自分の行いを)
疲れ切り、生気のないうしろ姿を、ワシは複雑な心境で見つめていた。
この女のことは好きではない。……だが、大事な家族を失った悲しみは理解できる。
淑恵は、秀明が廃材で直した、つぎはぎだらけの板の間を、固く絞った、使い古した雑巾で、ゆっくり、ゆっくり拭いていく。
時折休みながら。それでも着実に。
床を拭き終えた雑巾は、たいして汚れていなかった。おそらく毎日、この拭き掃除を繰り返しているからだろう。次は玄関を掃除するらしい。つっかけを足に引っ掛け、左手にちりとり、右手に箒を持ち、頼りない足取りで外へ出た。
風が、ぴゅう、と吹いた。暑い空気をまとい、潮の香りを運んでくるそれは、否が応でも秀明の生きていた時代を思い起こさせる。
ワシは何気なく、家から見える桟橋の方を見た。
(……よく、あそこでタバコを吸っていたな)
思いに耽っていると、たまたま通りかかった、近所の顔見知りらしき老女が淑恵に声をかけた。
「毎日えらいねえ。でもこんだけ暑いんだからよ、あんまり無理しちゃいけねえよぉ……しかし、もう半年か。ヒデさんが亡くなってからよ。はええもんだなぁ」
この海辺の街の年寄は、男でも女でも、似たような訛りがある。静江はいいとこの娘ということもあり、あまり訛ってはいなかったが、秀明と同じくらいの年代の者達は、皆この様な話し方をしていた。
「……主人が、きれい好きでしたから」
愛想笑いを浮かべながら、淑恵は泣きそうな顔をしていた。その顔を見て、老女は哀れに思ったのか、励ますような調子で言葉を続けた。
「あんたが一生懸命看病してたんだもの。きっとヒデさんも、今は極楽で幸せにくらしてるよ。あんたは精一杯生きてよ、残りの人生楽しまないと、ヒデさんの分もよ。あんたが悲しい顔してたら、きっとヒデさんも悲しむよ、な」
淑恵はうつむき、老婆の言葉に応える。
「私、でも、あの人がこんなに早く逝くなんて、思ってなくて。自由に外に出れなくて、毎日怒られて、なんで私がって、ずっと思っていて。……もう余命幾ばくもないあの人に、ひどいことを言ってしまって……きっと、私のことを恨んでると思うんです、あの人」
そう言って泣き始めた淑恵を見て、老女は淑恵の背中を優しく擦る。
「あんただけじゃないよぉ。あたしもよ、旦那の介護をいやいややってさ、だいぶひどいことを言ったもんだよ。あんた一人で世話してたんだろ、家で。ヘルパーさんも毎日来てくれるわけじゃねえし、腹が立って、ひどいこと言っても仕方ねえよ。きっとヒデさんはあんたに感謝してたと思うよ」
「そうでしょうか……」
淑恵は自分の袖で、涙を拭いながら、腑に落ちない顔をしてうつむいた。
老女が去った後も、定期的に誰かがやってきては、淑恵に声をかけている。このあたりは年寄りが多いので、お互い支え合って生きているのだろう。
しかし、誰に声をかけられ、励まされ、慰められようとも、淑恵の小さく丸まった背中が、伸びることはなかった。
夕食の時間になり、淑恵はようやく、自分の食事の支度を始めた。
だが、淑恵が作ったのは、クタクタに煮た米と、わかめの味噌汁と、梅干しだけ。それをまずは小さな食器に盛り、仏壇に飾られた秀明の笑顔の遺影の前に静かに置く。そうして仏壇の前に座り、手を合わせた淑恵は、再び泣き始めた。
「お父さん……ごめんなさい。最期に優しくできなくて。こういうのじゃないと、食べられなかったのよね。脂っこいものとか、かたいものじゃなくて。今頃気づいてごめんなさい……」
やせ細った老婆の背中は、小さく、震えていた。
「お父さんは、いつも、私に優しくしてくれたのに。生きてるときは、当たり前になってて、全然気づけなかった。足が悪い私のために、歩調を合わせて歩いてくれてたわよね。段差では手を貸してくれて。買い物好きな私のために、悪態つきながらも、いつも付き合ってくれたわよね。それから……それから……」
ぼろぼろと、大粒の涙を畳に落としながら、淑恵は、秀明への感謝の言葉を、ひとつ、ひとつ述べていった。
噛みしめるように、謝罪の言葉を合間に挟みながら、自分が食事をすることも忘れて、ひたすら仏壇の前で満面の笑顔の遺影に向かって、話かけ続けた。
ワシは、淑恵が紡ぐ言葉を、隣でずっと聞いていた。
いにしえに作られた、「人を呪い殺す道具」に、感情は存在しない。そして同情して涙などを流すことはない。なぜなら、人間ではないからだ。
そのはずだった。
だが、ワシは淑恵の姿を見て。確かに「泣いて」いて、「悲しい」と思っていた。
ハラハラと自分の目からこぼれ落ちるしずくは、地面に落ちては、その場に溶け込むように消えていく。
そして淑恵の後ろ姿に、静江を失った直後の、自分自身を重ねていた。
(なぜ、生きているうちに、わかりあえなかったのだろうか。確かにお互いを想っていたのに、どうして、想いは通じ合わなかったのだろうか)
ワシはその場で、何をするでもなく、ただただ、佇んでいた。
この日から、ワシは淑恵の家にいつき、懺悔の日々を重ねる淑恵を、静かに見守っていた。
淑恵は毎月の月命日に、秀明の墓を訪ね続けた。
雨の日も、風の日も、暑い日も寒い日も。
風邪をひいて、多少体調が優れなくても、彼女が毎月の墓参りを欠かすことは一度もなかった。
そして毎回、小高い丘の上にある最愛の夫の墓に、謝り続けた。
しかし、秀明の死から、ほとんど眠らず、きちんとした食事も取らなかった淑恵は、秀明が亡くなってからちょうど二年が経とうとしていた頃、墓参りの帰り道で気を失い、病院に運ばれていった。
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