第15話 桜の頃

 しばらくは、きっと風邪でも引いて欠勤しているのだろうと思っていた。しかし、待てども待てども、彼は学校に現れない。


 心配になった私は、昼休みの間に改修工事の現場監督を見つけ出し、尋ねてみることにした。


「山田さん、森本さんってどうしたんですか?」


山田さんは、私の顔を見て、一瞬ギクッとしたような顔をする。


「アイツはねえ、もうこの現場には来ないよ。みさきちゃんも、せっかくの休み時間なんだから、お友達と過ごしておいで」


 軽くあしらうようにそう言って、山田さんはそそくさと現場に戻っていった。


 いままで、まるで娘にでも接するかのように、気軽に話してくれていた山田さんが、随分とよそよそしい。一体何が起こったのかと、その場で立ち尽くしていると、後ろからクスクスと笑い声が聞こえてくる。


「・・あーあ。あの子があの大工さんに色目使ったりしなければ、あの人もずっとここにいられたのにね」


「本当そう。クビになっちゃって可哀想」


「いい目の保養だったのにねー」


 振り返ると、そこには私のクラスのカースト上位に位置する、綺麗目女子のグループが意地悪な笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「まさか、あることないことを学校にチクったんじゃないでしょうね・・?」


 私と森本さんは、ちょっとした会話を交わしていたくらいで、後ろめたいことは何もしていない。だが、もし本当に学校側が問題だと判断して、改修工事業者に対して何らかの対応をしたのであれば、彼女たちが余計な情報をくっつけて報告したに違いない。


「別に? 事実をそのまま報告しただけだけど」


 おそらく、連絡先を聞いて、自分たちは教えてもらえなかったのに、私が彼と仲良く話しているのが気に食わなかったのだろう。


 真偽はともかく、学校としては、改修工事の作業員と学生が関係を持ってしまったなどど言う話になれば炎上は避けられない。「疑わしきは罰せよ」ということだ。


(私がここで、彼の行き先を聞いて回れば、さらに彼の立場が悪くなる・・。残念だけど、諦めるしかないのかな・・)


 女子グループを、キッと睨みつけつつも、自分が積極的に彼に話しかけていったことがきっかけでもある。彼女たちが学校にチクらなくても、いつかは問題になっていたかもしれない。


 私は今女子高生で、相手は社会人。――今はこれ以上、どうすることも出来ない。


 やるせない気持ちを抱えたまま教室に戻った私は、受け入れられない現実をひとまず忘れようと、次の授業の予習をするために、教科書を開いた。


(前世の記憶が蘇ったくらいだもの。またいつか、会えるかもしれない。そうでなきゃ、蘇る意味がないもの)


 今は、学生の本分に集中しよう。そしていつか、彼とまた再会できた時に、他人のために道を踏み外しがちな彼を、支えられる大人になっているために。



* * * * *


 猛勉強の甲斐あって私は無事、第一志望の都内の大学の建築学部に合格した。まだ肌寒さの残る四月、真新しいスーツに身を包んだ私は今、両親と共に入学式に向かっている。


「みさきもいよいよ、大学生かぁ。時が経つのは早いものだね」


 入学式の会場まで車を運転中の父は、すでに涙ぐんでいる。長い受験勉強から解放され、無事大学生となれた私も、新生活への期待に胸を膨らませ、何度も入学案内を開き、今日のこの日を、今か今かと待ちわびていた。


(前世は高卒だったし、過去を合わせても初めての体験だものね)


 ふと、車の中から、満開の桜並木を眺める。


 すると最近はあまり思い出さなくなっていた、彼との記憶のワンシーンがふわりと頭を巡った。


――あれは、「夫」と自宅で過ごした最後の春だった。




* * * * *



「お母さん、桜を見に行かないか」


 自分で運転をすることができなくなってから、めっきり外出が減ってしまった夫が、急にそんなことを言い出した。


走水水源地はしりみずすいげんちのよう、桜がそろそろ満開らしいんだ。隣ん家のシゲさんが家族で見に行ったらしくてよ。俺も行きてえなあって思ってさ」


 走水水源地というのは、明治九年に、フランス人技師ヴェルニー指揮のもと、横須賀製鉄所の用水として使用したことに始まる歴史ある水源地だ。


 付近には沢山の桜が植えられており、花見の名所としても地域住民や観光客に親しまれている。


 この時の夫はまだ、自力で動き回ることができていたが、抗がん剤の副作用のために足の裏の皮が剥けていて、休み休みでないと歩けなくなっていた。


 走水水源地に到着した夫は、写真を撮りたがった。普段は撮りたがらない、夫婦でのツーショットを。


「綺麗だなぁ」


 そう言ったきり、夫はその場に座り込んだ。その場に咲き誇る桜の美しさを、目に焼き付けるように、じっと眺める夫の横に、私も座った。


 満開の桜は、下から見上げると、まるで天にたむけられた花束のようだ。風に揺られて、はらはらと舞い落ちる桜の花びらは、どんな生き物にも等しく終わりが訪れることを象徴するかのようで。


 美しくありながらも、どこか寂しさを思わせるような、そんな、風景だった。


 思えばあれが、夫婦で出かける最後のデートだったのだ。



* * * * *



「あら、なによ、みさきもそんなに目を赤くして。親子揃ってもう。入学式はこれからよ?」


「これは・・違うってば!」


 せっかくばっちり仕上げたメイクがドロドロにならないようにと、母は私にティッシュを渡してくれた。


 近場の時間貸し駐車場に車を停め、カバンを持って外へ出る。


 車を降りた瞬間、ブワッという強風と共に、桜吹雪で視界が遮られた。


「うわっ、今日は風が強いなぁ。にしても綺麗だよなぁ。入学式まで桜がもっててくれてよかったな。毎年大体卒業式シーズンで散っちゃうのに、今年は寒かったからかな」


 父のつぶやきを聞き流しながら、私は桜吹雪で乱れた髪の毛を整え、カバンを肩にかけ直し、何気なく、視界を風が吹いてきた方向へ向けた。


――すると、桜の花びらが舞う視界の先に。軽トラックを片手で閉め、車のキーをくるくると回しながら鼻歌を歌って歩いていく、まぎれもない「彼」の後ろ姿が目に入った。


「えっ!」


 入学式当日であることも、両親が隣にいることも、全て吹き飛んで。私は彼の後ろ姿を追って、思い切り駆け出していた。

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