第7話 最後の譲渡記録
町内会の代表者たちが去った後も、近隣の人々が代わる代わる弔問に訪れた。生涯の殆どをこの地で過ごした親父には、本当に知り合いが多かった。
牛乳店をやっていた時分に、自転車の荷台にのせてもらったり、遊んでもらったという当時の子どもたち。そして当時の従業員たち。
家のトイレや水道が故障するたび、直しに来てもらっていたという高齢の女性。
若いときに一緒に馬鹿をやったという友人たち。
どの人たちも、亡くなった父との思い出を懐かしそうに、涙ぐみながら語ってくれた。そして彼らの記憶の中の親父は、俺たちの晩年の記憶とは違い、人情深く、暖かで、太陽のごとく明るく、周りにいる人を元気づける力をもった人だった。家族に対しては不器用だったが、本来はそういう人だったのだろう。
俺は疲れてはいたが、そうした弔問客たちの記憶から、自分が知らなかった父の姿を読み取ることが、非常に大事な、貴重な時間であるように思えた。
そうして、一人ひとりの話から、親父の思い出のかけらを拾い集め、心の棚へ仕舞っていく作業は、日が暮れるまで続いた。
午後7時。弔問客が一段落し、疲れ切っていた俺たちは、デリバリーで寿司を取った。母も俺もぐったりとしていたが、夕食を取り終わって早々、俺は母に切り出した。
「母さん、親父の日記帳と芳名帳、最後まで読まないか。葬儀が終わる前に、事の顛末を知っておきたいんだ……。親父と本当のお別れをする前に」
母も同じ気持ちだったようで、「そうね」と一言言って、弱々しく頷いた。お膳を片付け、年季の入ったちゃぶ台を綺麗に拭き、俺たちは再度、古ぼけたお菓子の缶詰を開いた。
最後に何のために自分の幸せを譲ったのか――おそらく自分の寿命を大きく縮めるほどの願いのために――俺も、母ももう、譲渡先には大体の見当がついていた。
その事実を確認するのは怖くもあったが、知らなくてはならないことだと思った。
芳名帳に記載のある、最後のページを開く。親父の文字で綴られた文字を目にして、俺はクシャリと、表情を歪めた。
そこには、予想していた通りの言葉が、並べられていた。
――孫の洸汰が、健やかに、元気に生き続けられるよう、俺が持てる限りの幸せをすべて洸汰に譲る――
子どもが大好きな親父は、唯一の内孫である洸汰の誕生を、心から楽しみにしていた。それは、弔問客が口々に話していたことだった。
そしてその洸汰が、超低体重児で生まれ、その生命の灯火が消えようとしていた時、親父は覚悟を決めてしまったのだろう。
家族の前で、洸汰のことで泣くことはなかったが、父の友人の一人が、一緒に酒を飲んだ席で、洸汰の状況について話しながら泣き崩れる親父の姿を見ていた。
頬を伝う涙を拭いながら、俺は日記帳の方を開いた。そこには――涙で滲んだ、たくさんの文字と、親父の心の声が、長文で書き残されていた。
「ようやく俺も『じいじ』になれる。その日を、本当に楽しみにしていたんだ。カレンダーに書かれた出産予定日を、安定期に入ってからずっと、指折り指折り、そりゃあもう楽しみに数えていた。
それが何の運命か、未成熟のままこの世に生み出され、たくさんの管に繋がれて保育器の中にいる。
誰のせいでもない。七海さんも、大事に大事にお腹の子を育ててきた。祐也も、生まれてくる子どものために、必死こいて働いている。みんな生まれてくる子どもに会うために、一生懸命やってきたんだ。その結果が今なのだから、誰も責められはしない。
だけど、洸汰が、このまま消えてしまうなんていうのは、どうしても受け入れられなかった」
洸汰がNICUに入っていた時期、すでに父は大腸がんを患っていた。まだ完治の可能性が残されている状況で、抗がん剤の2種目がうまく効いており、副作用はあるものの、がんの進行は抑えられていた。そして副作用のひどい時以外は、親父はNICUに足を運び、祈るような眼差しで、洸汰をじっと見ていた。
「次に幸せを譲ったら、きっと俺の命は尽きてしまうだろう。でも、俺は洸汰に生きていてほしい。こんな小さい子が、こんな早くに死ななきゃいけないなんて間違ってる。
どうか俺の残りの幸せで、なんとかならねえかなあ。どうか仏様、いや、神主様か、俺の命を使ってください。
ああ、でも、洸汰ともっとたくさん、一緒にいたかったなあ。こいつが『じいじ』って言うところを、聞きたかったなア。公園で遊んで、一緒に絵を描いて、一緒に昼寝をして……。くやしいなア、畜生」
そのあとも、文章になりきらないような、親父の決意と、躊躇と、後悔と、実現されなかった洸汰とやりたかったことなどが、丁寧な筆致で書かれていた。そしてその文字はところどころ、日記帳の上に落ちたであろう涙のしずくで斑になっていた。
――そして日記帳の結びには、こう書かれていた。
「色々書いたけど、後悔はしてねえ。どうか洸汰が、元気に大きくなって、学校に行って、就職して、新しい家族を築けますように。俺の分も幸せになれよ、洸汰。じゃあな」
親父の最後の――赤裸々に綴られた心の内を、俺は、どうやって受け取ればいいのかわからない。
もし、もしこの力が本当なら。本当に、人に自分の幸せを切り分けて与える能力が存在するのなら。
親父が命の椅子を譲ってくれなければ、洸太が生き残ることはなかっただろう。
だが、その最後の幸せの譲渡により、親父は自分の生涯を閉じることになった。
御礼を言うべきなのか、怒るべきなのか、悲しむべきなのか。
複雑な思いを抱えたまま、俺は日記帳を閉じた。
最後となるこの幸せの譲渡記録が書かれた翌日から、洸汰の状況は一気に好転し、数カ月後には無事退院することができた。
しかしそれと同時期に、親父の抗がん剤の効きが悪くなる。再度抗がん剤をかえても良い結果が得られることはなく、全身に転移が広がっていった。
全身症状の悪化と同時に、アルツハイマーも発症した親父は、とうとう洸汰と、外で遊ぶことはできなかった。
親父が亡くなって、この日記帳を見つけて、弔問客を通じて親父の想いを知らなかったら、きっと最後の譲渡記録の内容なんて予想もつかなかっただろう。
自分の幸せよりも家族の幸せを優先し続ける、こんなにも思いやりのある、温かい人間だったことを、俺は知らなかった。知ろうともしなかった。
総合すると、とても人間臭い、愛すべき人間だったのかもしれない。
人懐っこくお調子者で、あと先考えず、人のことばかり優先するきらいがある。不器用で、面と向かっての愛情表現は苦手だが、どうにかして家族を助けてやろうとこっそりと頑張るくせがある。
酒が好きで、浴びるほど飲み、酒による失敗談は数え切れなかった。
働き者ではあったが、どこか報われない哀しさがある――父親と関わった誰もが、「しょうがないやつ」と思いながらも、その優しさと人間的魅力を愛している。
偉大な人間でも人格者でもない。だが誰よりも記憶に残る、そして愛嬌のある、クソ親父なのだ。
親父は何度も幸せを譲ったが、そのどれにも後悔はしていなかった。ただし被った災難に関しては、それなりに悪態はついていたし、その災難に耐えきれなくて、家族に当たることもあった。
後悔は無いが、災難に対する覚悟はなかったのかもしれない。
……そこもなんだか、親父らしいなと思った。
気づくと、これまで半分夢うつつにいるようで、一度も涙をこぼさなかった母が、日記帳と芳名帳を抱きしめながら、嗚咽を漏らしている。
ようやく、親父がもう居ないという、実感が湧いてきたのかもしれない。ここ数年のうちにどんどん小さくなった母の背中が、更に小さくなったように見える。
今度は俺が、悲しみに暮れる母の背中をさすってやった。
* * * * *
その日の晩、俺は夢を見た。
陽気のいい、秋晴れの日だった。親父に手を引かれて、家から15分ほどのところにある小学校に向けて歩いていく。親父の方を見上げるが、その顔は前を向いていて、どんな表情をしているかは読み取れない。
俺の小さな手を握る大きな手は、友達のお父さんと比べると、少しだけ年をとっていて、シミが多くて、日に焼けていた。
小学校の校庭に着くと、親父は俺に、子ども用のグローブを差し出す。
「誕生日プレゼントだ。大事に使えよ」と言って手渡されたそれは、ピカピカで、かっこよくて。俺はその場でぴょんぴょん飛び上がって、親父にお礼を言う。
照れくさそうに、顔を背けながら頭を掻いた親父は、「ほれ、早速やるぞ。ちゃんと構えとけよ」と、俺に背中を向けて、小走りで俺から5メートルくらい離れたところにポジションをとった。
――これはいくつの時の記憶だっただろうか。
ようやく顔を見ることができた親父の表情は、とても嬉しそうで。太陽を背に背負って、輝いていた。もともと運動神経の良かった親父は、40代後半に入っても、スポーツが得意だった。
親父とのキャッチボールは、楽しくて、楽しくて。夢中になってボールを投げ返していた。
額に汗が光るくらい投げあったあと、うっかり手を滑らした親父のボールが、俺の額にクリーンヒットする。あまりの痛みに額を押さえ、瞳に涙が滲んだ俺を見て、親父は血相を変えて駆け寄ってきた。
額の無事を確かめると、タバコ臭い胸でガッチリ抱きしめられ、「痛かったなあ、ごめんなあ。今日は仕舞いにしような」と背中をなでてくれる。
帰りには近くの揚げ物屋で、つるつるした包み紙に入れられた、魚肉ソーセージの揚げ物を買ってくれた。そしてそれを、熱々のうちに2人で立ち食いしながら家に向う。
「楽しかったなあ、またキャッチボールしようなあ」と微笑む親父の顔を見た後、フッと目が覚めた。
寝たまま涙を流していたらしく、少し乾いた涙で顔がカピカピしている。
「あの頃は、なんの意識もせずに親父と他愛ない会話ができてたのにな……」
もはや戻ってこない、親父との暖かな遠い日々を懐かしみながら、俺は目の前の布団に、顔をうずめた。
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