第6話 知られざる父の思い
海辺に面した、葬儀場に到着した時には、俺は涙が止められなくなっていた。運転中はなんとかこらえていた涙が、次から次へと溢れてくる。
気づけば母が、俺の背中に手を当て、慰めるように優しくさすってくれていた。
「幸せを譲る力」が、本当に存在するとはまだ考えられない。
だが、日記帳に書かれた父の葛藤は本物だった。そして何も知らなかった少年時代、自分が味わったと同じ苦痛を受けていた父に、ひどい言葉を浴びせ続けてしまったことが、本当に悔やまれた。
――時計を見る。打ち合わせの時刻を、すでに5分過ぎていた。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
そして、改めて親父の顔を見たくなった。
身なりを整え、涙で崩れた顔をハンカチで拭い、葬儀場に向けて歩き出す。
すでに叔母が到着しており、入り口で俺たちを待っていた。係の人に促され、父が安置されている葬儀会場の一つで打ち合わせに入る。遺影の写真の選択や、生花の手配、香典返しの選定や、当日の役割の確認など、こんなにやることが多いとは思っておらず驚く。
(身内を見送った人間たちは、みんなこんなことをやっているのか……。悲しみに浸る暇もないっていうのは本当だな……)
一通り打ち合わせを終え、明日の告別式の準備は整った。家族葬のため、お通夜は行わない。その場で各所に連絡を入れ、淡々と決められた手順をこなしていく。すべてのやり取りを終えた俺は、おもむろに席を立ち、親父の顔を改めて見に行った。
亡くなる2週間ほど前から、親父は酸素マスクをはめられ、本当に苦しそうにしていた。
腹には腹水がたまり、パンパンに膨れており、象のようにむくんだ足を見るのは辛かった。がんで亡くなる直前は、体の水分を排出する機能が停止するため、皆その様になるのだという。
それが今は、すべての苦しみから開放されたような、穏やかな顔をしている。
親父の手に、自分の手を重ねる。親父の手を握るなんて、子どもの時以来だろうか。だが、記憶にあるぬくい大きな手とは異なり、それは小さく、ドライアイスによって冷え切った硬いものだった。
俺は周囲にも聞こえないような声で、ポツリとつぶやいた。
「――親父、幸せを譲る力なんて、本当に持ってたのかよ……」
* * * * *
自宅に戻り、家の中を片付けていると、チャイムが鳴った。玄関に出てみると、町内会の会長と、役員の何名かが入り口に立っていた。
「秀ちゃんが亡くなったって聞いてよ。この度は本当に、ご愁傷さまでした。忙しいところ申し訳ないんだが、仏様の顔拝んでおきたくてな。あいつには世話になったし」
「わざわざありがとうございます。ただ……父の遺体は、葬儀場に安置されていまして……。お焼香だけでもよければ……」
それを聞いて、町内会長も役員も、とても残念そうな顔をした。「今の町内会長とは長え付き合いなんだよな」と父が言っていた事を思い出し、骨になる前に会わせてやれないことを申し訳なく思った。母が憔悴しきっていることもあり、来訪者の対応の負荷を考えて家族葬にしたのだ。
「そうか、最近は自宅に戻したりしねえんだな……残念だが、ではお焼香だけいいかなあ。あと奥さん、これ、町内会から、受け取ってくれ」
町内会長は母に「
線香を上げ、仏前に手を合わせていた町内会長たちは、母の方に向き直った。
「本当に、大変だったなあ。奥さん。最後まで世話して、あんた偉かったよ。秀ちゃんが働けなかった時期も、毎日働きに出て、家計を支えて。近所のみんなで、本当に偉いなあって話してたんだよ。……息子さん、お母さん助けてやれよ」
晩年、俺も定期的に様子を見に来ていたが、母はほぼ1人で、親父の世話をしていた。
闘病生活の終盤の方は、怒りっぽく、母に辛く当たることも多くなった親父の相手をすることに、母は疲れ切っている感があった。最後の方は、弱った親父に対してひどい言葉を浴びせてしまったこともあったと、亡くなったときからずっと母は懺悔の言葉を繰り返している。
それもあってか、町内会長の「偉い」という言葉に、母は苦悶の表情を浮かべて目に涙をためていた。今の母にとっては、褒められることが一番の苦痛なのかもしれない。
「秀明さんはねえ、本当に、人の悪口を言わない人で。頭に来ることがあると、真正面から喧嘩しにいく、気持ちのいい人だったわよ。いっつも家族の自慢話をしていてねえ。ご家族の事が、本当に大好きだったのね」
役員の村上さんは、そう親父を表現したが、家族から見た父の印象は真逆だった。俺が子どものころはよく遊んでくれたが、いじめられていた時期はほとんど関わって来ることはなかったし、高校時代は喧嘩してばかりだった。学生時代のわだかまりが解消しきれず、大人になってからも、親父に対して冷たい態度を取っていた時期が長く、決して暖かな家庭の雰囲気ではなかった。
最近は定期的に会いに来たり、穏やかに会話を交わすこともあったので、険悪な関係ではなくなってはいたが、アルツハイマーを発症した父は、テレビに出ている誰々が気に食わないだとか、些細なことでしょっちゅう怒鳴っており、母だけでなく、俺に対しても食って掛かることも多くなっていた。
「そうなんですか……」
同調もできず、困ったような表情で、そう答えるしかできなかった。
「奥さんと結婚するときもね。秀明さん、『俺は嫁さんをうーんと大事にするんだ。俺みてえなやつのところに、あんなにきれいな人が来てくれるなんて、夢見てえな話だからなぁ』って、のろけちゃってねえ。その時の嬉しそうな顔が今でも忘れられないわ」
「祐也くんのこともなあ、できた自慢の息子だって、よくいってたな。『流石、俺の遺伝子』なんて冗談言いながらね。……ほんとに、よく家族の話をしてた。お孫さんのことも本当に可愛がってて」
町内会の人たちの話を聞いて、俺もだんだんといたたまれなくなっていった。最後の方は彼らとどんな会話を交わしたか覚えていない。ただただ心に残ったのは、もっと親父と会話をしておけばよかった、もっとたくさん、楽しい話をしてやれば良かったという後悔だった。
会長たちが帰る頃、ふと仏壇の横に目をやると、葬儀場に出かける前に見たあの猫が、知らぬ間に部屋の中に入ってきて、座布団に背筋を伸ばした格好で座っているのが見えた。
――その姿が、なんだかまるで、親父が現世を離れる前に、家族の様子を見に来たように思えて。俺は、猫を外へ追い出すことができなかった。
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