第9話 はじまり◆

「理由なんてない。だって、何もかも意味なんてないから」


 言葉が、あさきの脳裏をなぜていく。西日が朱金に廊下を染める。紅茶色の瞳は薄く澄んで、意識は遠く、セピアの記憶へと流されていく――


 夏休みの近づいた、七月のことだった。キッチンから、あさきは母に一声かけた。


「お母さん、私ちょっと出かけてくる」


 その日は、早愛や島、奥村と真木の五人で遊びに出かけようと、思っていた。皆で、忙しくなるこれからに向けて、思い切り楽しもうと声をかけあったのだった。

 文化祭の劇は、役柄も決まり、演劇の練習や、大道具や貸し衣装の手配、大道具、小道具のデザインと作成、演出、いろんなことが大がかりに進み出していた。

 これから夏休みにはいるが、時間のあるものは集まって、劇に向けて準備しようと、話し合った。文化祭は思い出が一番だから、用事や他に約束のある生徒を阻害しないよう、スケジュールもがんばって調整した。

 皆、熱意に燃えていた。

 松野や畑、椎名や宮野とも、先生を仲介に頼んでの話し合いの末、少しずつ意見を交わし合うことができるようになっていた。

 王女はあさき、呪いをかけた魔法使いは、松野がやることとなった。松野自身の希望だった。


「どうせ私がやることなんて望んでないから」


 その言葉については気になったが、松野が王女の役を固辞してしまったので、それ以上、推しようがなかった。

 それでも、松野が言ってくれたのなら、協力しあって、いい思い出にしたい。そう思っていた。

 そんな皆の熱意を焼き付けたような、晴天だった。リビングの壁は黒板のチョークの様に白く、ひたすらに明るかった。

 母は、リビングのソファに座っていた。氷の入ったレモン水を飲んでいて、小さなグラスは汗をかいていた。


「お母さん?」


 あさきはソファをのぞき込むと、もう一度声をかけた。母は、ぼうっとリビングの前の真っ黒なテレビを見ていた。母の少女のような顔が、くらい画面に映っている。


「具合でも悪いの?」

「あさき」


 あさきが尋ねる。そこで、ようやく母は振り返った。縁の仄赤く染まった唇を、動かすか動かさないかの、ほんのかすかな震えだけで発声されたささやきだった。


「大丈夫? お母さん。夏ばて?」

「平気よ」


 言葉と裏腹に、母はぽうっと夢心地で、あさきは心配げに眉を寄せる。母は、両腕をよせた太股の脇に置いて、しなだれかかるように、座っていた。母は、目を伏せて、顔を伏せてみせ、あさきに隣に座るように促した。あさきは、ソファに腰掛けた。待ち合わせまでは、まだ時間があった。あさきの太股に、そっと母の手がのせられた。羽のように触れているのに、なんだか塗れたような、触感だった。


「どうしたの?」

「あさき。――お母さん、恋をしてるの」

「え?」


 あさきは、素っ頓狂な声を上げた。しかし、すぐに、母の言葉を呑み込んだ。そして、笑った。母が恋する乙女のように、愛を語らうのは今に始まったことではなかったからだ。


「ああ。はいはい、ごちそうさま」


 まさか、父へののろけを聞かされるとは。心配はいらなかったのかもしれない。あさきは少々、呆れに混じった安堵を覚えた。はははと笑いが漏れる。母は、そんなあさきを見て、嬉しそうに笑った。


「あさきは、私についてくるわね?」

「うん?」

「お父さんと、私が別れたら。私についてくるわよね」

「――え?」

「お母さん、再婚考えてる人がいるのよ。ずっと彼を待ってるの」


 母は、夢心地の顔でささやいた。少女が、親友に恋の相手を打ち明けるような、可憐な笑みでもって。


「何、言ってるの?」


 母は、何かばかなことを言っている。いつものようにふざけて、突飛なことを言っている。そう思うのに、あさきは、どういうわけか、あさきの中の、暢気の思考が消えたのを感じていた。あさきは言葉を呑み込んでいない。けれど、何か、ふってわいた違和感――警鐘のようなものが、あさきが呑み込む前に、暢気を消してしまった。そのことがまた、あさきの同様に拍車をかけた。

 母は、眉を下げて、あさきの手を取った。あさきは、なぜだかそれをすぐにでも振り払いたい衝動にかられた。それでいて、おれるほど握らなければ、そんな強迫観念にもおそわれていた。母の手は濡れていないのに、吸いつくようだった。


「お母さん、本当の恋に出会ったの。あさきにだけは話すわ。だって、もう十二歳だもの。私の気持ち、もうわかるでしょう? だから、あさきにだけ、特別に話すのよ。特別よ」


 母は、小首を傾けて無邪気に笑った。

 母の顔は、可憐で、なにも変わらない。十二年間、傍にいた人の顔だった。しかし、全くの別人だった。そっくりなのに、違う人間だった。

 あさきの腕に鳥肌が立った。まだだ。まだ、言葉の半数も呑み込めてはいなかった。それなのに、ここから逃げ出したい、そんな衝動に駆られた。


「な、なに言ってるのかわかんないよ」


 あさきは、母の手をどけた。声は、震えていた。無性に寒くて、外に出たかった。明るい、日差しの元で、この寒気を焼いてしまいたかった。


「お父さんも、まだ、わかってくれてないの。でも、きっとわかってもらうわ。私、絶対、彼と結婚するわ」

「やめて。ふざけないでったら」


 母は、あさきの肩に触れてきた。話が通じない。というより、母の中で決められたことを、話しているというのに近かった。母は、あさきの動揺にも、知っているという体で、言葉を紡ぎ続ける。

 思えば、最近、父と母が目を合わせていないような――日常の中の、ささいな違和が、頭によぎって、あさきはそれを振り払った。


「だから、あさきも待っててね。はるひと空を支えてね。きっとあさきも、彼を好きになる。彼も、あさきを好いてくれるわ。私の子だもの」

「やめてったら!」


 あさきは立ち上がった。あさきがにらんでも、母は、すこし眉をさげた。けれど、それは何かだだっ子を見るそれにすぎなかった。


「冗談でも、言っていいことと悪いことがあるよ。もう、心配して損した。私、出かけるからね。六時には帰る」


 あさきは、怒った。怒ることで、この異様な状況を嘘にしてしまいたかった。けれど、感情がすべて空虚に足下からぬけて行くような、そんな頼りなさを感じた。

 たいしたことはないんだ。きっと、いつもの悪ふざけなんだ。そう言い聞かせた。なのに、どうしてこんなに怖いのか、わからなかった。

 とにかくここから離れたい。そう思って、あさきは部屋を取びだした。


「待っててね、あさき。必ずよ」


 あさきの背に、母の波のような声がついてきた。振り切るように、玄関に走った。

 ここ最近の、父と母が何か言い争う声が、思い出されていた。自由で子供のような母と、母を愛する故に過保護な父が言い合いをすることなんて、珍しいことではなかった。けれど、それが今はひどく引っかかってしまう。

 全部が悪い方へと、想像が向いてしまう。

 あさきは踏むように靴を履いて外へ飛び出した。

 日差しは白く明るくて、あさきはほっと息をついた。走ってもないのに、ひざに手をついて、息を整えた。しばらくそうしていたが、踏ん切りをつけて、早愛の家へ向かった。

 すると、隣の家の庭先に、早愛がちょうど出てきたところだった。


「あさちゃん」


 早愛が、あさきを見て笑った。あさきは、心底安堵した。心が、あたたかなところへそっと着地したのを感じた。


「どうしたの」

「何でもない。行こっか」


 早愛があさきの手を取って、尋ねた。あさきはそれに、首を振り、笑い返した。まだ、不穏なかげを、感じないではなかった。けれど、早愛や島、奥村や真木と話していると、それを少しずつ、薄れさせることができた。

 ――なにをあんなに怖がっていたんだろう。

 ――きっと大丈夫。なにも変わらない。


 そう、思うことができた。信じていたのだ。

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