第10話 波紋◆

 日の当たるところが好きだ。白い陽射しが好きだ。あさきは、教室の中で思う。机を前に寄せて、後ろにスペースを作った教室は、あさきをわくわくさせる。空いたスペースに、陽射しが差して、床が明るく見える。

 こういう非日常は好きだ。でも、同時に、今はなんだか、少し落ち着かなかった。


「あさき、夏休みも、学校か?」


 焼きそばをつまみながら、父はあさきに尋ねた。


「うん。塾の子とか、皆も用事あるから、毎日じゃないけどね。休みの方が、時間とれるから、集まりたいな、と思ってるよ」

「そうか。頑張れ。でも、無理はするなよ。遊びにも行こうな」

「うん! はるひと空ともたくさん遊ぶよ」

「プール行く!」

「プール!」


 妹と弟がはしゃぐのを、笑ってみる、父の目元を見て、あさきは「赤くて、くまができてる」と思った。

 今までなら、「お父さん、大丈夫?」と聞けた。なのに、どうしてか、聞くことができなかった。


「お母さんも行く?」

「いいわね。水着、買いに行かなくっちゃね」

「やったあ!」


 となりの母は、そんな父にはしらぬ顔で、ご機嫌にお酒を飲んでいる。そして妹と弟の話を朗らかに聞いていた。

 あれからあさきは、日常が、気になるようになった。母と父のやりとり、それを答え合わせするように、見ている自分がいる。些細な違和が、不穏なささくれに見えてしまう。気にしないで、過ごせばいい、そう思う。あさきはいつも通り振る舞う。そんな自分にさえ、不安を覚えてしまう。


「待ってくれ、僕が一番君を愛している。どうして、わかってくれないんだ」

「もうやめて。お願いだから、わたしを変えようとしないで」


 夜中に、母と父の言い争う声が、どうにも胸に張り付いて離れない。聞こうとしなくても、聞こえてくる。たとえば、父の声はいつもの怒りと言うより、悲しみや懇願に近いものであるとか、反して母は、驚くほど、いつもどおりに、怒っているところであるとか。


「わかってよ」


 互いの声がそう言っているのだ。喧嘩には、珍しいことじゃない。けれど、妙にそれが、気になるのだ。耳から入って、暗い不安を落とすのだ。

 あさきは身を起こすと、いっそ二人の部屋に入ってしまおうかとさえ思う。いつもなら、できたのだ。きっとそうした。けれど、いつも布団の奥に潜り込んでしまう。暑いのに、丸くなって眠るのだ。

 夜はよくない、家の中はよくない、不安をかき立てる。

 朝、目が覚めると、少し不安は消える。陽射しのもとへ歩き出すと、胸のかげが焼かれて、消えていくようだ。

 朝は好きだ。陽射しは好きだ。夏は好きだ。――好きだった。


「これから行くの?」

「お母さん。うん、行ってきます」


 母に声をかけられると、あさきは少し身構えるようになった。あの話の続きをされないか、どこかでおそれていたのだった。

 母の言ったことは、きっと、ただのたちの悪い冗談なのだ。頭ではわかっていた。

 だって、十二年間、ずっと一緒にいるのだ。たった一言で、不安に思うことさえ、父と母に失礼なのだ。何を不安に思うことがあるだろう。そう思う。けれど、それは見てみないふりをしていると、自分の中でもう一つの声がするのだ。二つの気持ちは、天秤に掛けられて、揺れている。どちらもまだ、取ることができないでいる。


「行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 母の声が、背中にかかる。それに、笑い返すと、不安と罪悪感を覚えながら、あさきは外に飛び出す。

 いっそ誰かに相談したかった。話せないから、こんな風に、悪く考えて不安になるのだ。

 いつものように、父に話したかった。父は、どんなことでも、いつも真剣に話を聞いてくれた。でも、これだけは、言えない。母の嘘であっても、こんなことを言われたら、父は傷つくから。だから、友達にも言えなかった。


――あさき、待っていてね――


 こんなことで、そう思う。悩んでバカみたいだ、きっといつか、何を不安に思っていたんだろうって、思うに決まってる――わかっているのに、ずっと胸の奥で、不安がくすぶっていた。


「じゃあ、今から本読みしまーす」


 皆で輪になって座り、劇の本読みをする。クラス全員の生徒が、手作りの台本を持っていた。夏休み前に、皆で作ったのだ。

 あさきは、文化祭の準備に打ち込むことで、不安を忘れようとした。そして、それはとても効果があった。皆と話している間、考えている間は、本当に楽しくて、あさきは、不安なあさきではなく、いつものあさきに戻ることができたのだ。皆の意見を聞いて、劇を作り上げていく。

 ひととおり、本読みが終わり、休憩に入る。あさきは、ペンを片手に、じっと台本をにらめっこしていた。

 呪いにかけられ、ずっと眠り続け、目覚めを待つ王女。

 あさきは、きっと王女は幸せだったと思う。しかし、腑に落ちない所があった。


「早愛。王女ってどんな子だったのかな? いけないってわかってたけど、思わず、言いつけを破って、針にさわっちゃうところを、私、どう演じたらいいのかなあ。どうしてさわっちゃったんだろう。怒ってた? それとも、惹かれたのかな?」


 早愛は、考えるそぶりを見せて、つぶやくように答えた。


「さみしかった」

「さみしい?」

「王女はすごく、すてきな子なの。きっとすごく優しくて、皆のことを大好きで、自分のことも幸せだって、わかってるの。でもずっと、皆に、呪われてるってこと、隠されてきたから、本当は不安だったと思う」

「不安」

「それが、きっときっかけ、と、私は思う。すれ違い、だよね。皆王女のことが大好きだから」


 たしかに王女は、ずっと秘密の中に生きてきたのだ。でも、それは皆が、王女を愛していたから。だから、隠していたのだ。


「そっか。この場面って、すごく、切ないんだね」


 あさきは、天井を見上げた。王女も皆も、確かにお互いを思っていたのに、呪いの通りになってしまった。


「だから、皆で待つんだよ。私が眠らせる」


 早愛が、拳を握って言う。それから、人差し指で、杖のまねをして、ひらひらと動かした。早愛の瞳はきらきらとしていた。早愛は、死の呪いを眠りの呪いに変えた魔法使いの役に抜擢された。そして早愛は、「私、やる」とみんなの前ではっきり言ったのだ。

 早愛の台本は、たくさんふせんがついて、折りじわがついていた。早愛はきっと優しくて勇敢で、魅力的な魔法使いを演じるだろう。王女への言葉は、早愛の演じる魔法使いもまた、想像させた。


「そっかあ。ありがとう、早愛。何かすごい深まった」

「ううん」

「早愛の魔法使い、楽しみだな」

「えへへ」

「ねえねえ、二人とも何話してるの」

「役のことなら、私たちにも教えて」

「情報は共有しないとなー」


 朗読役の田中や、王妃の役をする北、それから島達が話に加わった。皆、早愛の解釈に感心し、メモを取っている。


「それなら、私は厳しく言うだけじゃなくて、好きで、心配しているってことをもっと表せたらいいかな?」

「えっそれ、すごいかっこいいじゃん。そういうの好き」


 劇の間、あさきはあさきではなく、王女になる。そして早愛たちも、違う人間になるのだ。それでいて、それぞれ、自分なりに役を解釈し、個性を出そうとしていて、いっそう面白かった。


「あ、でもすごいって言ったら、松野さんもすごいよね」

「すごい研究してるって聞いた」


 北が、ぽんと思いついたように言って、それから「しまった」という顔をした。田中はそれに気づかず、素直に言葉を続けた。気まずそうに北はこちらを見たが、あさきはおどけて首を傾げて笑って見せた。北は安堵した様子だった。

 松野は、呪いをかけた魔法使いをただ悪役にするのではなく、悲劇性も出したいと意気込んでいた。


「うん、むかつくけど、松野の演技、何かこう、ぞくっとしたよ。むかつくけど」


 奥村が腕組みしながら頷いて言った。


「ちっ」

「島は、違う?」

「まあ、他の奴がやってたら、スゲーと思う」


 素直じゃない、島の言葉にあさきは背を叩いた。島が肘で返してきたので、あさきは笑った。

 演者以外の生徒達からも、いろんな意見が出た。皆のアイデアはとどまることを知らず、演出に対する覚え書きで、あさきの「六年三組ノート」は膨れ上がった。「六年三組ノート」ももう、三冊目だった。五冊目が終わる頃には、文化祭本番だろうか。陽射しとふくらんで空気を含んでいるためか、触れると温かかった。


「じゃあ、皆! そろそろもう一回、本読み行こうか!」

「おう!」


 あさきが、かけ声をかけると、皆も元気な声で応えた。



 母が、不倫相手の会社で騒ぎを起こして、病院に運ばれたと連絡が入ったのは、夏休みに入って二週間が経ったころのことだった。

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