第8話 友森大翔
目が覚める。ベッドの上で、あさきは仰向けに寝ころんでいた。自分の部屋の天井が、あさきの瞳に映っている。見慣れているのに、他人のもののような気がする。
どこでも他人のような気がしている。
着替えて洗面所の鏡に向かえば、見慣れた女の顔がじっとあさきを見ていた。長い前髪の隙間から見えた、陰鬱な目を伏せると、まつげの陰が下瞼に落ちる。その顔から視線をよけるように、手をのばし鏡の横の歯ブラシをとった。
「じゃま。ぼーっとしないでよ」
顔を洗っていると、どんと体を押された。妹が身支度をしに、入ってきたのだった。歯ブラシを取ると口を開いて歯を磨き出す。あさきはタオルで顔をふきながら、洗面所を出た。
廊下をわき目もふらず歩き、あさきはキッチンに向かう。テーブルに置かれたパンを一つとると、すぐに玄関に向かった。
「お母さん!」
妹が、廊下の脇にある「あの部屋」の中に入っていく。扉をひらいて、膝から体を滑り込ませると、朝から何か話し込んでいる。部屋の中には、父もいるのだろう。妹に答える声は、部屋の主ではなく、父のものだった。弟はまだ夢の中だ。
あさきは、指先をぎりと噛んだ。そして、玄関のドアを開いて、外に出た。ドアの閉まる音とドアベルの音だけが、背後からあさきを追った。
早朝の陽射しはやわらかく、空気も冷えている。それでも、ずっと過ごしやすくなった。朝は、あさきの顔色の悪さを、あらわにさせた。目の下に触れると、重くよどんでいる気がした。
「行ってきます」
ちょうど早愛が、玄関から出てきた。庭に着いた階段を下りて、早愛がこちらへ向かってくる。
「おはよう、あさき」
早愛はにこ、とはにかんだ。早愛は今にもベッドに戻りたそうな、頼りない顔をしている。それなのに、メイクはしっかりと施されていて、そこがアンバランスだった。早愛の眠気と比例するように、濃いブラウンの眉が、陽射しに照らされた額の下に、存在を主張していた。
「おはよう」
あさきが返すと、早愛は歩き出した。二人で、駅まで、そしてバスに乗り、学校へ向かう。道のりは長いのに、居眠りできるような時間はない、そんな短い旅を、毎日して、あさきと早愛は高校へ向かう。
早愛もあさきも何か話すことはなかった。話題は、おそらくいくらでもあった。しかし、早愛は低血圧で朝が苦手、そしてあさきは黙っていたい。お互いに利益ある行動だった。
時折、ずっとこの時間が続くような、そんな気がする。ここで、時が止まるような気がするのだ。あさきは、足から地面が消え、一瞬無重力の空間へと投げ出される。そして、その瞬間、すべてが停止する。
そうして、自分は抜け殻になって、抜け殻の自分が、学校へと向かい、家に帰るのだ。
そんな気がして、ならなかった。
「城田、友森! 手伝え」
午後一番の授業の終わり、世界史の、久山に声をかけられた。二人で向かうと、久山は、
「資料室へ向かって、次の課題の為のプリントを、持ってきてくれ。たくさんあるから、台車にのせてあるけど、そのまま来てくれたらいい。配ったら、台車も返しておいてくれな」
言うだけ言って、久山は恰幅のいい腹をそらし、教科書を持って去っていった。友森は、その背に「はい」と気持ちのいい返事をした。あさきは、返事をしなかった。友森はそんなあさきをちらりと見たが、何も言わなかった。
クラスの左上部の席で、どっと笑い声がわく。佐田と一谷達のグループだった。グループの一人を指さして、笑っていた。指された生徒は、立ち上がり、半笑いで抗議していた。
「ムキになりすぎ」
「怒るって事はまじなんじゃねえの」
からかわれ、その生徒は一瞬不満の表情を瞳に浮かべたが、すぐにひきつった笑いの中にごまかして見せた。
グループのうちの一人が、こちらを見ていることに気づいた。彼は、佐田達のグループではないが、グループのうちの一人と仲がいいので、時々輪に入っている生徒だった。その彼と、あさきの視線がかち合う。その事に相手は明らかに動揺し、あわてて顔を伏せる。その狼狽した様子に気づいた一谷達が、彼をからかいだした。そして、彼の向かわせていた視線の先を探した。しかし、そこにいたのがあさきだと気づくと、目を見開いた。その驚きを覆うようなオーバーアクションで、一谷はあからさまに驚いて見せ、佐田は、うえっと舌を出した。それから顔を見合わせバカにしたように笑った。そしてその生徒を小突く。
「まじかよお」
「ねえわ」
「バーカ」
「だっせえ」
口角と目尻をゆがませて、笑顔を作っている。
あさきは、すぐに彼らから、視線をはずした。そして、資料室へと向かった。先の様子を見ていたのか見ていないのか、友森がとぼけた様子で、あとから続いた。
「皆、笑顔の勉強しましょう。笑顔は人間の玄関です」
小学校の時の担任の教師の言葉だ。言葉自体はわからないが、何となく心に残る言葉だった。教師の穏やかに弧を描いた口元だけ、あさきの脳裏によみがえる。
しかし、あさきは知っていた。それらすべて、もはや意味のないものだということを知っていた。何かをたとえ今から取り戻せたって、もう、前のようには、その言葉にも何でも実感を持つことはできなかった。
プリントを配り終え、空の台車を押しながら、廊下を友森は歩く。あさきも隣に並び歩きながらも、外の新緑を見ていた。葉桜の時期も終わり、若葉がどんどん緑めき出している。西日が、葉っぱを照らし、廊下に葉の陰を作っていた。もうすぐ初夏だ。
となりの友森は、何かの歌を口ずさみながら、台車を押している。友森は、基本ずっと笑んでいる。しかし、それが平常であったり意識的であったりする顔なのだ、という感じはしなかった。人が嬉しいときなどにする、無意識で特別な笑顔を、普段から浮かべているという感じがした。
「今日は天気がいいね」
ふいに友森が話しかけてきた。相変わらず、独り言と区別のつかない話しようだった。あさきは黙っていた。友森は、気にした風もなく、あさきの方に視線をよこして言った。
「早く外に行きたいな。城田さんは?」
あさきは答えない。友森は、答えをしばらく待っていたが、返ってこないと踏んだのか、にこ、と笑うと、また前に向き直った。全く嫌みもなく、あきらめもない、あさきから答えが返ってきても、こんな反応だろう――そう思わせる笑顔だった。
友森は歌う。友森の歌は調子外れで、何を歌っているのか、正直まったくわからない。けれど、不思議とうるさくなくて、ずっと頭の中をすり抜けていった。
「元気だね」
ふいに、あさきの口から、言葉がこぼれ出た。その事に、あさき自身が驚いた。友森は、驚かなかった。ただ、破顔すると、言葉を返してきた。
「城田さんは、怒ってる」
あさきの顔が固まった。わずかに残った表情が、すっと脱力したと言ってもよかった。友森は、気にしたそぶりもなく、ただ、台車を押しながら、あさきを見た。
「どうして怒ってるの?」
友森は台車を止める。そして、じっとあさきの顔を見てきた。身長のあまり変わらない二人は、ただ注視するだけで、目線がぴたりと合った。友森は、疑問を投げかけ、反応を求めているのに、あっさりとした、視線だった。
「城田さんは、いつも怒ってるね。どうして?」
友森の声は、澄んだ中低音で、無人の音楽室のピアノの様に、無造作にぽーんと響いた。あたたかだとか、やさしいだとか、いろんな形容ができたが、どれもはまりきらず、あえて言うなら、陽射しみたいにどこか野放図で、開けっぴろげ、そんな質感だった。
やわらかな紅茶色の瞳が、差し込んだ西日に照らされて、きらきらと揺れていた。光は強いのに、穏やかな視線だった。その目の虹彩を見て、そこで、自分が久し振りに、人の目を見ていることを、あさきは遠くで実感した。
――沈黙。それは、ほんの一瞬のことだった。しかし、二人は、穏やかな緊張の中にいた。
あさきが、息をついたとき、思わずというように、言葉があふれでてきた――
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