2.

 芹沢亜昼せりざわあひるは夢を見る。それは実に嫌な夢であった。からだの上を蝸牛が這っている。蛞蝓かもしれんなあと老人が声をかけた。その後は雲だけが彼の視界を通り過ぎた。無意識のうちに数えていた。彼がこうなってから通り過ぎていった雲の数の話。数字はなんの役にも立たず、自分自身への比喩になる。廃品の運命に憐憫はない。可哀想などと、彼を見つける子供がいれば、触るなと止める大人が比例する。この世は安心に守られているのだ。不安であるところの彼自身は朽ちるまで他を寄せ付けない役回りである。信仰で忌むこと、それで言えば彼はゴミである。不浄。沈黙が友人ならば浮かばれる情緒もあったかもしれない。蝸牛か蛞蝓かを指摘した老人は隙間を埋めてくれる可能性に立っていた。にも関わらず彼は呼び止めることが出来なかった。声帯が壊れていたから? それはそうかもしれなかったが、それだけでないことは彼自身がよく知るところだろう。嫌いなものを好きになるのは難しいことなのだ。手始めに歩み寄る、そのことが億劫で仕方ない。ましてや動力のない彼は風に吹かれる雑草と大差ない。植物は裏切らないのではない。詩情がただ心通う生き物のようにそれらを扱わせるだけであって、そもそも疎通などあり得ない関係性なのだ。その点、かつて動物だった彼に植物の性格が重なるというのも暴論だが。なんにせよ彼は廃品で友人もなく、終わるために呼吸していた。

 

 彼とは誰だ。

 

 脈動が大きく打つ。記憶は断片化し粉々に砕け散ると永遠の黒が広がった。何もない空間に意識だけが漂う。このまま目覚めないかもしれない。芹沢亜昼はそう呟いた。


***


「プルーストが三秒で読み終わったらつまらないだろ。ところが我々が生きている時代は今そこにある。利便性の追求から多くの頭脳は時間の確保を命題にしてしまった。結果、我々は余韻を許さず効率だけのパーツと成り果てた。頁を捲る意味はなくなり、そんなものは無駄であると決めつけてしまう。最後にはこのような思考の流れさえも無きものとして通過する時間効率主義者が完成する。この講義は無駄について議論する場だ。そして全過程を終了する頃、私は君たちに問いたい。この議論はつまらないものであったかとね」

 


 学生たちが講義室からはけた後、教壇で資料を片付けるすずき教授に拍手が捧げられた。

「何だね君は」

「はじめまして教授殿。あー、すみません。私はここの学生ではないが少しワケあって今ここにいます」

「私に何か用かね」

「教授の唱える昨今無駄とされる事象事物本来の有用性、またそれに伴う倫理の可逆についての論文を読まさせていただきました。大変興味深い内容です。この国に思想を取り締まる機関が存在すれば、今進んでいる方向性から申し上げてあなたは大罪人かも知れませんな」

「世間話なら結構。私とて無駄を好いているわけではないからね」

「大罪は英雄の表裏。社会闘争の中で刃を差し向けることは勇気ある行為です。教授の思想がチンピラのしのぎ程度でないことくらい学生諸君も理解しているでしょう。端的に申し上げます。我々に協力していただきたい」

 鱸は懐疑の眼差しを向け、何も答えず講義室を出ようと扉の前まで歩を進めた。しかしながら自らの意思で出ることは叶わなかった。出口を巨躯の男が塞ぐ。

「申し遅れました。私はグリムウルフ。そっちは助手の古囃子こばやし君です」

 古囃子の太い腕が鱸の腹部を捉えて突いた。教授の意識は一瞬で遠のく。


***


「ここはどこだ!」

「知って何になる。安心か? 私の家だよ。茶なら待て。いま入れている」

「なぜ俺を助けた」

「すっかり"俺"だな。そのほうがいいぞ。よく似合っている」

「質問に答えろ!」

「前に立場の話をしたな。君は自分の立場をわかっているかね。ククッ クハッハッハッ いや、すまない。可笑しくてね。助けたというのは厳密ではない。私は契約と言ったね。私は一応あの場面を君が逃してくれたとかなり好意的な解釈で受け入れた。よって成立。対価は一つの望み、それを叶えてやること。言い忘れていたがこれで君は晴れて私の支配下に入った。式神。まあ神ではないから使役とでも駒とでも」

「ふざけるな! そんな無茶苦茶なものを契約とは言わん。そもそも俺は頼んだ覚えもない!」

「だが願った。君たちが言うところの魔女とやらは狡猾なのさ。つけいる隙などいくらでもあった。十八の娘に使役される、どうだい。おっさんの夢じゃあないかね?」

「お前、十八なのか」

「あ だったらなんだね。嬉しいか?」

「ガキじゃないか」

「戯け! 私を子供扱いするのは許さんぞ!」

(プッ)

「カロン! 貴様いま笑ったな!」

「待て。状況が飲めん。俺をどうするつもりだ」

 春滝はばつの悪そうな表情で咳払いするとこう言った。

「君には、そうだね。或るオンナを殺す為にいろいろと手伝ってもらう」


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