第9話   意外な初仕事①

 して、その可愛い召し物とは。


 まるで吾輩専用にあつらわれたかのようなフィット感の黒い半袖シャツに、黒い短パン、仕上げは黒のカフェエプロン。袖や裾に、真っ赤なリボンが飾り縫いされて、良いアクセントになっている。ブラックに統一されたストイックさ、そこに加わった太めリボンがなかなか可愛らしい。


 マドンナに聞くところ、この店にこれと言った制服はないそうだが、吾輩の唯一無二である一張羅が、獣人の愛らしさを半減させていたそうだから、制服代わりに支給してくれたそうだ。まるほど、身に着けた黒の短パンには尻尾用の穴がしっかりと開いている。


 これならば、吾輩目当てに店も繁盛しよう。



 それとはまた別の話になるが、吾輩は他者のシフト表まで把握しておらぬ。新人スタッフとは、己の仕事を覚えるだけで手一杯で、同期や先輩の都合まで頭に入らぬ。入ったばかりの新人が、使えぬやつだと思い込むは浅はかなり。己とて使えぬ新人時代があったはずだと、思い出してほしいものである。


 ものの十分足らずが過ぎ去った頃であろうか。


 マドンナの開店準備を、いささか手伝えるほどには、見よう見まねで動けるようになった。吾輩の技量の高さは、充分に褒めるに値する。玄関前を小さな箒でさっと履いて、ふわふわの淡い虹色の玄関マットを手入れしてと、朝から重労働であった。


 現時刻は吾輩にとっての「朝」であり、実際には猫たちのライフワークに合わせて、この店は昼から開店する。いささかのんびりしすぎな店であるが、不慣れな吾輩には始終ドタバタと慌ただしかった。


 少し遠くから、昨日とは違った色合いのバルーンスカートが登場した際には、吾輩は今日もダイナ嬢から偉大なる教えを賜るのだろうと安易に予想したのだが、猫の生涯とは風変わりなもので、必ずしも想像の範囲内に収まることばかりではない。


 吾輩がそれを悟ったのは、この愛らしいキウイグリーンの両目に飛び込んできた彼女の表情が、余裕なく見えたからだ。


「どうした、ダイナ嬢。慌てふためくなど、貴女きじょらしくないではないか」


「子猫ちゃん! 今フワラテちゃんいる!?」


 吾輩は小脇にされ、その女の細腕からは想像もできぬ腕力に翻弄されるがまま店内へと戻されていった。


 玄関のドアベルが可憐な音を鳴らす。


 ちょうどマドンナがカーテンを形よく膨らませて、ハート型の留め具で丁寧に形成している最中であったが、同性のベテランスタッフの一大事と察するや、すべての作業を中断し、ダイナ嬢と手を取り合った。


「どうしたのダイナちゃん! 今日はお休みでしょ?」


 休みであったらしい。吾輩は他者のシフト表まで把握できぬ。


「どうしようフワラテちゃん、聞いて聞いて! あたしの家の女の子が、なんだか家出しそうな雰囲気なの。昨日も目に涙をいっぱい浮かべて、『家出してやるんだからー!』って海に向かって叫んでたの。家出したがっているのは、いつものことだったんだけど、昨日はそうじゃなくて、いつもと様子が違ったの。どうしよう、あたしじゃあの子を止められないわ。あの子の背中を見送って、そのまま二度と帰ってこなくなるのを傍観するしかできないだなんて、そんなのとても耐えられないわぁ〜」


 驚いたことに、ダイナ嬢の頬を伝う涙は本物であった。くっきりと縁取られたキャットアイメイクも、黒い線を肌に残さず、吾輩は今初めて、彼女の美しい目の形が自前のものであると知ったのだった。


 泣き止みそうにない乙女を前に、マドンナはその腕や背中をさすってやりながら、うんうんと頷いた。何かを決意したような雰囲気の顔である。


「一旦落ち着きましょう。キャラメルソースたっぷりの、フワラテを淹れるわ。好きな席で待ってて」


 颯爽とバリスタモードへ切り替わる、乙女は強しである。


 読者諸君、吾輩を役立たずに思うは早急が過ぎる。ダイナ嬢の腕の中に居ながらにして、その飴玉のごとく甘ったるい香りに包まれながらも、吾輩はそら熱心にダイナ嬢から話を聞き出した。人間は結論を急ぎ求める生き物であるが、猫を見習い、物事をじっくりと観察しながら昼寝できる余裕を持つが重要である。たとえ彼女が要領の得ない内容ばかりを話し始めて、滝のように止まらなくなったとしても、そういう滝行と思えばいささかの眠気も感じない。


 神社の日陰に生きていた頃は、よくこうしてOLの愚痴に付き合ったものである。吾輩に子供はおらねども、数多の女性の心の拠り所となり、泣き止まぬ雨に傘を差し伸べ、余裕と優しさを携えて多くを救ってまわった。


「ねえ聞いてる? 子猫ちゃん! 起きてちょうだいよ、もう!」


 まだ終わらんのか、うるさいメスである。フワラテ一杯運ばれるまでに、どれほどの早口で捲し立てていたのだろう、支離滅裂でほとんど聞き取れなかった。


 無実の罪で責められる吾輩を、素晴らしいタイミングで救い出したるは、特大マグカップになみなみと淹れたフワラテを、一枚の盆で運んできたマドンナだった。


「迷子を家に帰すのは、あなたの得意分野でしょ? 今までだって、大勢を家に帰してきたんだもの。案外、今回も上手くやっちゃうんじゃない? 本気を出したあなたは、すごいもの」


 マドンナでなくば、この程度の安い売り言葉をに受ける者は少ないであろう。マドンナの甘やかな美声による慰めは、少々錯乱が過ぎるダイナ嬢に落ち着きを取り戻させ、今ではおとなしくコーヒーを両手にゆっくり飲むに至っている。


 吾輩はフワラテと引き換えにマドンナから奪還され、逞しき細腕に抱かれていた。やはり、この腕の中に包まれるが一番落ち着く。否、我が今生の母に勝る者なし、誠に胸が痛むが、マドンナは二番目だ。


 二番にしてしまった罪悪感ゆえに、吾輩はおとなしく抱き上げられていた。厨房でマドンナは、しばし吾輩を人間の赤子のごとくあやしていた。ダイナ嬢をさらに落ち着かせるために、彼女を一人にさせていた。


 吾輩はこっそりと耳打ちする。


「マドンナよ、教えてほしい。吾輩とダイナ嬢は昨日今日会った程度の仲だが、このように取り乱す姿は、かなり珍しいのではないか?」


「ええそうよ、クロウちゃん。あなたはとても賢い子猫ね。そしてとっても優しい子だわ」


 マドンナは嬉しそうに微笑みながら、おもむろに吾輩をホールへと運んでいった。


「ねえダイナちゃん、クロウちゃんもあなたのこととっても心配だそうよ。あなたの力になってくれるかも」


 それは早とちりであるぞ、マドンナよ。吾輩は確かに頼れる男ではあるが、今日昨日会った仲の、不思議が風船に詰まったような女子を助太刀できるほどの器用さはない。急遽訪れた仕事仲間の緊急事態に、対処できるほどの技量もない。


 それに今日は一日中マドンナとともに店を切り盛りしたい気分である。朝からやる気を出し、せっせと店の手伝いをしているのは、ひとえにマドンナと過ごす時間を楽しんでいたからである。


 マドンナの胸に顔を埋めていると、ダイナ嬢が怪しげな含み笑いを漏らした。


「私情で新人を怖がらせちゃあ、先輩店員失格よネ~。あたしもすっかり取り乱しちゃってた、もう大丈夫よ~。大好きなコーヒーを一杯飲んだら落ち着いた。うん、あたしもあなたと同じドッペルゲンガーだもの、なんとしてもあの子の家出を阻止して、暗くなる前にお家に帰ってもらうわ~」


 からになったマグカップをセルフで厨房へ、さらに会計まで済ませようとするダイナ嬢に、初めから奢るつもりであったマドンナが止めるも、全てのメニューの値段を把握しているベテラン店員の財布の手を、阻止することは敵わぬのであった。


「それじゃあネ、ご馳走さま~!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

転生・吾輩はドッペルゲンガーである ~『本物』ではない~ 小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中) @kohana-sugar

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ