第8話 マドンナの寝室
彼女の寝床は、店の二階にあった。幅の狭い窮屈な階段を上り、木目の荒々しい扉を引き開けると、そこには随分と質素な、よく言えば自然体な部屋があった。下の階の店が異様にカラフルだったせいか、その反動で、とてつもなく地味に見える。
本の詰まった本棚に、詰めれば二人は寝られそうなベット、衣装ダンス、化粧をする鏡台……ここで毎日、マドンナの身だしなみは美しく整えられるのだと考えると、随分と踏み込んだ領域まで、吾輩を導くものだと、少しくすぐったく思った。
「残念だけど、この街にお風呂はないの。とても遠い街に行けば、大浴場があるんだけど、私たちは大きなお鍋で沸かしたお湯で、体を清めましょう」
「なに? 風呂がない? それは願ったり叶ったりだ。生前の吾輩も、体が濡れるのは嫌であった」
「あらあら、もう昔の体ではないのよ? あなたが異臭を放ちながらお外を歩くのを、他の人たちは良く思わないでしょう。私と暮らすなら、毎日体を清めてもらわなきゃ。仮にもあなたは、明日から接客をする身よ。お客様の鼻がいつも曲がりっぱなしだと、お店も私も困っちゃうわ」
吾輩はうなずいておいた。どうやらマドンナは臭いのが苦手らしい。猫やその他の動物たちは、自分の臭いをあちこちに擦りつけて縄張りを主張する故に、無味無臭だと困るのだが、昨今は臭いのが困るのだそうだ。マドンナに嫌われてしまっては、縄張りも主張もあるまい。甘んじて淑女の好みに染まろう。
というわけで、吾輩は猫鍋の主役となり、その身を清めた。世話焼きなマドンナの両の手を借り、
「暴れないで、クロウちゃん。まだ背中がお湯に浸かってないし、お顔にだってお湯がかかってないわ」
「いやだあああ! 頭が濡れるのが大変に不愉快だ」
「ふふ。髪の毛が臭うと、可愛いお顔も台無しよ。お風呂はお客様と私のために、耐えてちょうだい」
そして現在、バスタオル数枚に包まれて、横たわっている。なかなかに疲労した。やはり不慣れで見慣れぬ湯浴みの文化が、繊細な吾輩の心身に
マドンナがどのようにして湯を浴びるのかは、残念ながら観察できなかった。今日だけでいろいろあった吾輩は、タオルにくるまれたまま深く深く眠っていたのだった。きみよ、何度も睡魔に誘われる吾輩に呆れることなかれ。子猫とは常にのびのび遊び、のびのび学び、そして急な電池切れを繰り返しながら成長していく生き物である。
であるからして、吾輩が濡れそぼった身体に疲労し、眠りこけてしまうのは、子供ゆえの体力の低さと、睡魔に勝てぬ宿命を背負ってしまったが故。
「あらあらクロウちゃん、パジャマには着替えないの? 保護猫用に数着、用意してあるんだけど」
そんな声が聞こえたような気もするが、床に転がした頭部が動かせなかった。己で気付かぬうちに、かなりの心的疲労を溜め込んでいたようだ。猫とは繊細な生き物である。引っ越し先に馴染めず、もとの家屋へ戻ってきてしまう猫もいるほどである。
「よいしょっと」
吾輩は持ち上げられ、パジャマとやらに袖を通され、その青と白のしましま柄をぼんやりと見つめながらも再び船を漕ぎ、気づけば大海原へと手足を投げ出し、
「わかったわ、ここで眠りたいのね」
呆れつつも苦笑するマドンナの優しい声音に、深く考えずうなずいて、ふかふかの毛布に包まれて部屋のど真ん中で寝息を立てていた。
この一室しかない造りの二階で、乙女がどのように吾輩と距離を取り、どのような寝顔で枕に沈んでいたのかは、目覚めた吾輩が空っぽのベッドに残った仄かな温もりに小さな両の手を押し当てて、
「クロウちゃん起きたー? それじゃあ顔を洗って、可愛い衣装に着替えましょうねー」
すでに一階で店支度を始めている働き者なマドンナの声が、吾輩を希望ある現実へと引き戻したのだった。
そうなのである。機会は、なにも今日一日だけではないのだ。明日もあれば明後日も、その先も。我輩がここへ居たいと思えば、そしてマドンナがそれを許してくれさえすれば、いつなんどきも、その機会は訪れるのだ。
して、その可愛いという召し物は、なんであろうか。客よりも我輩が気に入るかどうかが最重要案件である。マニュアルとやらも、どこまで読んだのやら、ほとんど記憶にないが、なんとかなるだろう、偉大なる先人ダイナ嬢の手口を、見よう見まねしながら乗り越えれば良い。
しかし、この時の吾輩は知る由もなかった。意外な相手から、とんでもなく複雑怪奇な依頼を、持ちかけられる事になろうなどとは。
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