第7話   ダイナ・チェーシア

 この店には制服の指定がないのか、ダイナは化粧室で多少の化粧直しを済ませたものの、あとは着の身着のままで椅子に座った。


「ダイナちゃ〜ん! 会いにきたよ〜!!」


 突然に開かれた扉の、取っ手部分に全体重を乗せたかのようなぐにゃぐにゃの体幹の男が、店のドアベルを派手に鳴らした犯人であった。


「この前のシフトのときいなかったから、またいつもの気まぐれか〜って思ったけど、そんなところも好きだよ〜!!」


「ありがと〜ん。優しいお客さんのおかげで、あたしも自由にお商売ができるわ〜」


 おい客よ、良いのか、それで。


 好いたメスに振り回されながらも愛される喜びは、明朗快闊な吾輩には同感しかねる感情である。最初の二、三回は楽しいだろうが、そのうち己の時間の使い方について思案し始め、来ぬメスを待ちぼうけする時間に無意味さを見い出してしまうと、甘美なる熱も冷めてしまう。きみよ、狭量と言うなかれ、猫は暇があれば己の睡眠欲に溺れたい生き物なのである。


 わくわくしながら着席する客に、相席状態のダイナは、テーブルに両肘をついて、甘ったるい笑顔を浮かべながら顎を載せた。


「今日は〜、どんなお話をしましょうか?」


「う〜んとね〜、ダイナちゃんの好きな魚が出てくる話がいいな〜」


 パンの上のバターも、ここまではとろけまい。


 ダイナの夢御伽草紙が紡がれる。吾輩はマニュアルこそ片手にしていたが、耳はすっかり彼女の甘ったるい声で語られる有象無象に引っ張られていた。ここに正直に感想を述べたとて激怒しない読者諸君は、ダイナの常連ではないと判断し、率直な猫の胸の内を明かす。ダイナの口からあふれ出るのは、じつにナンセンスかつ懐かしさを覚える懐古的な詩の集まりであった。コイノボリに、頭からむさぼり食うシシャモ、屋台の親父が密かにばらまくスジ肉と愛嬌などなど、さながら日本の片隅のノラの楽しみを知っているかのような話が、空を飛び交い、荒波を渡航して、我々の耳へと届けられた。


 確証を得て断言しよう、ダイナ嬢は、吾輩の前世の住居を知っている。日本の歩き方すら、心得ている。夢心地で生きられるほどノラの世界は甘くはない、むしろ苦みの強いハバネーロがごとく、ダイナ嬢が着飾りを楽しみながら生きていける場所ではないはず。しかし今ここに、この耳に、この黒くふわふわで愛くるしい子猫の耳に流れこんでくるのは、地獄をナンセンスな童話に変えて、子供の心を満たす母親からの子守歌。疲れた客を娯楽でもてなす朗読劇であった。


 悲劇も喜劇に、夢物語に。千夜一夜の悪辣非道も、ご静聴側は楽しんでいる。道路に転がる猫の死体も、優しい手によって埋葬されたら、幸せな終わり方として幕を閉じる。命尽きるまで激痛に苛まれ、損傷した脳が生み落とす悪夢に精神を打ち砕かれながら亡き母親を呼び続けていたのかもしれなくともだ。ご静聴ありがとうございました、である。


 ノラの世界を知り尽くしている側からすれば、ブラックコショウの効いたダイナの子守歌は、存外悪くなかった。カキは生よりグラタン派である。セイウチは食したことがないが、食物連鎖的に女王のパイの中身がソレである。端的に状況を説明しよう、眠くなってきた。




「ハ〜イ、グッモーニン!」


 目の前でパンパンと手を叩かれたら、どんな猫も飛び起きよう。例に漏れず吾輩も目を見開いた。目の前にバルーン的なバストをテーブルに乗せて、ニヤリと八重歯を魅せるメスは、ダイナ嬢であった。彼女越しに店をぐるりと一瞥すると、どうやら店じまいの最中で、客がいないどころか、客用のスリッパもマドンナのたおやかな手によって棚にしまわれているところであった。


「子猫ちゃんも、お片づけ手伝うのよ〜。あたしはもう帰るところだけど〜」


「ダイナ嬢、今日は客人に愉快かつ不快な物語をたくさん話しておったな。あんなにおもしろい話は他に聞いたことがなかった。つい耳を傾けてしまった」


「あら、じゃあその手に持ってるマニュアルは〜、あんまり読み込んでなさそうネ〜」


「う、それは、まあ、吾輩が本気を出せばこんなもの、一夜漬けでどうとでもなる。心配はご無用だ」


「うふふっ、フワラテちゃんをしっかり守ってあげてネ〜」


 パープルやピンクのザラメのような質感のマニキュアで彩られた長い爪、そんな片手をひらひらさせながら、ダイナ嬢は特に荷物も持たずに扉から去っていった。と思ったら、肩から小さめのポシェットが掛かっていた。服装の色合いが派手すぎて、些細な小物がほとんど目立たない。


「クロウちゃん、今日はここまでにしましょうか」


 マドンナは小さなバケツに、細目のモップを両手に持ち、掃除の支度を始める。たしか、清掃のやり方もマニュアルに掲載されていたような、吾輩はいささかの焦りをもってして速読してゆく。なるほど、ちっとも頭に入らぬが、間に合わせるしかない。


「ダイナは何人の客を相手した」


「五人よ。彼女とっても人気でね、お客さんが彼女のシフトを丸暗記しちゃってるほどなの」


「その割にはサボリ癖があって、ずいぶんと客を振り回しているようだがな」


「彼女は家猫として譲渡された身の上だから、おうちの人が大変なときは、こっちに来られないの。仕方ないわ、うちから譲渡されちゃった子は、お店よりも大事なモノが増えちゃうからね」


 耳慣れたような、耳慣れぬような、譲渡という言葉は吾輩の耳に引っかかった。


「譲渡とな?」


「クロウちゃんも、家族になってくれる人が見つかるといいわね」


「待て。ここは遊郭ではあるまいよな。まるで遊女の身請け話のようだ」


「あらら、すごい例えようね。そんな過酷なものじゃないわ。ただ、ほんの少しだけ、自由を家族に捧げてちょうだい。そしてたくさん、愛されてちょうだい。私からの、勝手なお願いね」


「マドンナ、吾輩はどこへも行くつもりはない。ずっと一緒にいる」


 駆け寄る吾輩に、マドンナは少し困った笑顔だった。そんな顔を向けられた我が心が、どれほど傷付いたか、愛しのきみよ、理解したまえ。


「ありがとう、クロウちゃん。でも、いつかあなたにも訪れるわ、ステキな人たちとの出会いが。あなたの全てを、一生涯かけて受け入れてくれる人たちが。いつか、きっと」


「そんなもの、できっこない。ノラは凶暴だ、汚い、病気や寄生虫を持っている、そんなイメージを払拭できるほど、吾輩は美しくない。万人に愛されるような演技はできない」


「難しく考えなくていいわ。他者を受け入れるのに一番重要なのは、相性よ。ただこれだけ。クロウちゃんは今まで、相性のいい人間に出会ってないだけ。ただこれだけよ」


 吾輩の過酷なノラ人生を、そんな一言で片づけてくれるな、と反論したかったが、悔しいかな男というものは、言い合いにくたびれてしまう。


「ステキな人に出会えたら、たっくさん愛されてちょうだい。いっぱいご飯食べて、のびのび生きてちょうだい。どこにいたって、『元気だよ』って、私に伝えてちょうだい」


「嫌だ。吾輩の幸せを勝手に決めてくれるな、マドンナよ。なんて罪深き女なのだ……」


「夜はどこで明かすの? 当てはある?」


「無い。ここの地理に明るくないのでな。どこぞ地べたでねそべって過ごすか、地べたよりはまともな布切れでも見つけて、くるまっていようと思う。ハンカチ一枚でも、砂利と決別できて嬉しいものだ」


 マドンナは嬉しそうなため息ではなかったが。


「外は、ノット・シュレディンガーたちが徘徊しているから危ないわ。彼らは、あなたたち種族を許さない。ゆっくり眠れる場所は、この付近にはないと思うわよ」


「では、もっと遠くへ行けと言うことか」


「そうじゃないわ。このお店の中でよかったら、一晩、一緒に過ごしましょ」


 テーブルにイスに、彼女は客の触れる物を次々と一人で拭いてゆく。猫の手も借りたいであろう、さすがに手伝った。


「マドンナ、その申し出は願ったり叶ったりである。ぜひ吾輩の子供を産んでくれ」


「あらら、世話焼きな人を好きになるのはわかるけど、出会ったばかりの相手にそんなこと言っちゃダメよ? 耳の鼓膜が破れるほど強烈なビンタが飛んできちゃうから」


「マドンナは吾輩が嫌いか?」


「もしもそうなら、ここに招いていないわ」


「では両思いだ」


「ふふ、女性側にもお母さんになりたい時期と、まだまだ仕事を頑張りたい時期があるのよ。なんでも両立できる人もいるけれど、私にはまだ無理。恋人を作りたい気持ちは、今のところまだ沸かないわ」


 相思相愛か、否かを、はぐらかされた気配がするのだが吾輩の被害妄想であろう。吾輩は本気で、マドンナとの子供が欲しいのである。


 前世の吾輩は、好いたメスと子供を残せなかった。苛烈な抗争から身を守るために、吾輩は子猫の頃からケンカに明け暮れる、過酷な日々を強要されていた。ある日、暴れ猫どもが多くいるから五月蠅くて眠れないと近所から苦情が入り、我々は集団で人間に捕獲され、一斉に去勢された。吾輩はまだ子供であったが、年齢不詳とされ、手術された。もしかすると、自分が子猫だと思いこんでいるだけの、とっくに大人であったのかもしれないが、今更調べようもないことである。


 手術の傷がふさがると、吾輩たちは外へ放された。すると、どういうわけだか嵐のようだった抗争が鎮まっていた。どうやら、またボス猫どもの上下関係が激動したらしい。


 穏やかな風凪の中、戦いに破れて足を引きずっている老猫、何匹も子供をかみ殺された母猫、親を失った乳飲み子などが、神社の隅に追いやられていた。吾輩が王国を築こうと奮起した、最初の一歩目の光景である。


 周りの目を気にしていたわけではない。良い猫に思われたくて、弱い立場にしか目が向かなかったわけではない。吾輩は賢かったのだ。いろいろなモノを視界に入れて、心配し、共に生きようとする、それは力こそ全てのボス猫どもへの、吾輩なりの仕返しであった。


 もしも子供が、作れたならば。


 吾輩も力こそ全ての猫に、なっていたのだろうか。



 それは無いだろう。証明してやろう。吾輩は目の前の、思うようにならないメス猫に腹を立てて、無理やり組み敷くような気は全く起きない。そして、未だに熱が冷めないままにこの女を愛している。思うようになってくれない今この瞬間をも、愛おしく感じているのであるからして、吾輩にとっては力など価値はない。


 尚且つ、親父親父と後ろをついて回る子猫どもに、おう着いてこいと一声かけて、ともに散歩に出かける、そのような親父に、今度こそなりたかった。


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