第6話 先輩店員らしき女
思いついたが吉日、即刻旅出たいところであるが、なかなかそうもゆかぬが世の常。明日までにマニュアルを全て読まなければならぬ身の上、労働者とは常々我慢我慢の連続である。だがしかし己を律するだけの褒美が待っているとあっては、やる気の出が違う。
マドンナは猫用に、玉葱や柑橘系を抜いた食事を提供してくれる。吾輩が初めて口にしたオムライスにも、玉葱は入っていなかった。代わりに鶏肉がたっぷりと入っていて、我々の好みと必要な栄養をしっかりと学んでいる彼女の勤勉さがうかがえる。
次第に壁のメニュー表へと気分が移ってきた。
そして眠くなってきた。君、不真面目と言うなかれ、子猫の睡眠欲求に勝るものはないのである。客のくつろぎスペースは靴を脱いであがるため、靴のない吾輩はフキンで足を拭ってから上がるのだと、ついさっき注意されたばかりだ。吾輩とて足跡を付けて目立つつもりはない。痕跡を消せるものなら、ぎりぎりまで消しておく、さながら砂の中に便を隠してしまう奥ゆかしさである。
吾輩が休憩して寝っ転がっていても、マドンナは目くじらを立てなかった。料理の下拵えで、それどころではないようだ。ふわふわした色彩の紙コップを、紙袋から取り出して機械にセットしている。
少々仮眠を取るため、ユニコーンなる虹色の便をする奇妙な馬のぬいぐるみを枕に、丸くなる。目を閉じていると、まぶたの裏に、生みの親のあっさりした子離れ親離れの名場面が浮かんでくる。わずか五歳にして旅立たされるとは思わなんだ。前世ならば一年が経てば立派な成猫だが、この体は、まだまだ心身の衝撃に弱い。枕につっぷして泣いている吾輩の耳を、マドンナの鼻歌が優しくくすぐった。子守にも長けているとは、どこまでも良い女である。
睡魔の海にゆらゆらとたゆたい、ゆっくりと沈んでゆく。心地よく入眠するひとときは、なかなかに乙なものである。
おさぼりと言うなかれ。ぐっすり寝た後は、外に出たい遊び盛りが子猫である。そして吾輩は労働者である前に、野良である。無登録、無国籍、宿無し、親無しである。マドンナが掃除をするのを手伝うふりをして、小さな箒を片手に玄関の隙間から外に出た。
猫を脅かす鎧武者はおらず、その大役者の穴を埋めるように、色という色が褪せた麻袋をまとった住民が往来している。無論、比喩だが、遠目から見たら細長く痩せた馬鈴薯が談笑しながら徘徊する奇妙な日常が垣間見えよう。
なぜこんなにも色褪せているのか。吾輩の産まれた緑豊かな大自然と比べると、オアシスのない砂漠である。建物も、まるで子供用玩具のブロックのようだ。
「よおダイナ!」
陽気な呼び声に、吾輩の頭部の猫耳も動いた。
砂埃に視界を支配された、この乾いた土地に、やたら鮮やかな色彩を放つ奇抜な服装の猫獣人が歩いてくるのが見えた。マドンナよりも小柄なメスで、綺麗に切り揃った紫の長い髪は腰の下まである。名をダイナ。彼女を呼んだ男が、ドライフラワーの小さな花束を彼女に手渡していたから、ダイナとは彼女のことである。
「ダイナのおかげで、ずっと仲違いしていたお袋とようやく仲直りできたよ。また何かもめることがあったら、相談に乗ってくれな」
「ふふ、気が乗ったらネ。迷子をおうちに届けちゃうのは大得意なの〜」
紫と白とピンクのストライプ柄で全身をきめている、派手派手な少女は、大きなバルーンスカートを揺らしながら、ころころと笑う。ハロウィンなる人間の催し物でしか見かけることがないバルーンスカートとは、とにかくバルーン的な形状のスカートのことである。
そしてレースの付いたジャケット越しでもわかる、バルーン的なバストである。栄養のゆき届いた艶やかな毛並みも相まって、彼女は三食昼寝付きが保証された家猫である可能性が高かった。この世界の家猫の基準は不明だが、少なくとも野良であそこまで艶やかには生き残れまい。
男は呆けた顔で己の顔を指さした。
「迷子? 俺のことか?」
「ふふ、そうかもネ」
ダイナは不安定な高低さのある、妙に耳に残る独特なしゃべり方をする女だった。しかし男と別れた後は、どこか気怠い表情に変わって、はあ、とため息。
「フワラテちゃんのお店、可愛いんだけど、もう少し濃いめの色味がいいのよね〜。黒とか、赤とか〜。勝手にアレンジしちゃったら、怒られちゃうかしら〜」
吾輩どもは耳が良い。些細な不平不満も愚痴も仕入れてしまうから、君、用心なされよ。
摩訶不思議な花魁のごときメスは、恐ろしい高さのハイヒールを履いており、石畳との間にこつこつと軽快な音を鳴らしながら歩いてゆく。目的地は、マドンナの営む、この店だ。
そして店の前で箒を片手に立ちすくむ門番こと、この吾輩と対峙することになる。女のラベンダー色の不思議な双眸が、吾輩を見下ろした。
「あら〜? あなた、どこの子ぉ?」
「迷子ではないぞ」
吾輩は後ろの店を指さして、明日より入る新人であると告げた。すると女は、意外そうに眼を丸くし、その瞳孔は黒豆さを増した。
「それじゃ〜あたしの後輩くんなのネ〜。いろいろと教えてあげるから、たっくさんおしゃべりしましょうネ〜」
気のよい返事をしただけでなく、頼れと言ってくれるとは。良き先輩は良き後輩を育てるものだ。吾輩はダイナなる女の手により、マイペースを貫きつつ多くに愛される理想の店員へと成長を果たすのだろう。
と思っていた時期が吾輩にもあった。
ダイナは口調と言の葉とは裏腹に、眠そうに目をこすり、面倒くささをこれでもかと体現した大あくび一つ。さらに「子守はアリスちゃんだけにしてほしいわ〜」とでかい独り言まで付いてきた。前言撤回の許可を願う。口だけ善人は、善人ではない。やらない善より、やる偽善だ。実践をさぼる者に信用は付いてこない。
マドンナが玄関から現れなければ、吾輩はもう少しダイナの人柄をうかがえぬものかと、あれこれ質疑問答を考えていたであろう。
「ダイナちゃん、いつも時間ぴったりに来てくれて助かるわ」
マドンナがさりげなく先輩店員の株を上げてゆく。出来た店長であるが、その計算高さに吾輩もいつか手の平に転がされる日も近いのだろう。
マドンナは吾輩を店に連れ戻すついでに扉を開けたらしい。さりげなく吾輩の首根っこを片手に、ダイナが入りやすいよう扉を開け放したまま店内に戻った。
マドンナに続いてダイナも入ってくる。綿菓子のごとく淡い色彩の中で、彼女はまるでベニテングタケである。
「さっきシュレディンガーが街を歩いてるのが見えたわ〜。あたしもこの店に登録されてなきゃ〜、きっと気軽にラテちゃんに会えなかったわネ〜」
ダイナは今からここで働くのだろうか。裏のロッカーに移動もせず、客用の椅子に座っている。
閉店するのではなかったかとマドンナに尋ねると、この店は夕方になると午後の部に切り替わるのだと返ってきた。つまり今が切り替わりどきらしい。吾輩がマニュアルを読み込んでいないことがバレたため、ダイナのもとへ避難した。
ダイナが吾輩に微笑む。
「あたし、甘いフワラテを一杯、いつもご馳走になっちゃうの〜。初めはお代をバイト代から出してたんだけど、フワラテちゃんが奢ってくれるようになって〜」
「常連さんがいっぱいいるダイナちゃんには、ずっとここにいてほしいもの」
「ふふ、心配しなくても〜。帰る場所は多いほうがいいものネ〜」
ここは乙女の集い場でもあった。マドンナにも同性の味方がいて安心したのは、オスばかりに囲まれる高嶺の花というのも考えものだからだ。
テーブルにフワラテが運ばれてくる。吾輩は背伸びして、やたらふわふわした泡立ち豊かなそれを見上げた。
「シュレディンガーとやらは、未登録者には問答無用で襲ってくるのか」
「そうネ〜。あの鎧の中身って、たまーに意外な人も入ってたりするから、いろんな意味でほんとに気をつけないとネ〜」
「どういう意味だ?」
「たとえばー、中身にあたしが入ってるかもネ〜」
諸君にはこの女が言わんとすることがわかるだろうか。謎々は時と場合と話題の不謹慎さを選ばねば、ただただ不快である。
「お前もシュレディンガーなのか?」
「あの鎧って〜、じつは誰でも着れるのよネ〜。いつか子猫くんも、着たいと思う時が来るかも〜。あたしは今のところ着る予定ないけど〜」
無断で鎧を借りられる場所でもあるのだろうか。ダイナの話は雲を掴むようである。
女子二人の近状報告大会が始まったとたん、吾輩は肩身の狭さを感じ、マニュアル片手に店の奥へと引っ込んだ。どうやらダイナは遠くから出勤しており、月に七日ほどのシフトらしい。彼女目当てに来てくれる客がとても多いそうだ。いずれ吾輩目当てに訪れる客も増えることだろう。
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