第4話   隠れ潜むばかりが猫ではない

 ハートマークのカフェラテを飲みほした青年は、マドンナから事の次第を聞き、素頓狂な悲鳴をあげた。


 どうやら、この吾輩が従業員として店に入るのが不服らしい。気持ちは分からんでもないが、せっかくの好機をみすみす逃すこともしない。


 青年とは良きライバル関係を築き上げ、切磋琢磨していく所存である。


 しかして吾輩に飽きが来ぬとも限らない。ニャンコ心と秋の空。猫の気まぐれは、その瞳孔の揺れ動くかのごとしであり、自分でもいつまでマドンナとこの店に懸想していられるかわからない。


 せいぜい、今を全力で楽しむ。それが猫の生き方である。未来の事など、まるでわからぬのだから。


 諸君の誤解なきよう、あえてここで言及させてもらうが、吾輩は揉め事や戦争が好きなわけではない。猫同士の縄張り争いに巻き込まれ、か弱い子猫や、老猫を失った経緯が、数多ある。野良猫の世界は厳しかった。群れのリーダーになったかと思えば、遠くからあぶれてきたオス猫たちが襲いかかってくる。メス猫たちが次に孕む子供の血筋を、己が系譜にしたてようと、血で血を洗う大喧嘩が頻発する。


 他の地域がどうかは知らぬが、吾輩の住んでいたあたりは、猫の抗争が激しかった。惰眠を貪りたい性格の吾輩たちには、不向きな土地であった。


 吾輩は群れを引き連れて、安住の地を目指して旅をした。しかし不思議なもので、一年も経たずに、あの神社へと戻ってきてしまった。縄張りのボスの入れ替わりが激しく、どこも治安が不安定で、あの神社ほど良い場所ではなかったからだろう。


 吾輩の群れは、日頃人間たちに媚びてきたおかげで、野蛮なオス猫どもから庇ってもらったり、飯をもらったり、毛布をもらったりして、食いつないでいた。


 世話した仔猫どもは、数知れず。吾輩を、実の父だと慕う猫たちが巣立ってゆくときは、その一生に幸多からんことを願うばかりであったのを、思い出す。


 吾輩は弱いリーダーであった。しかし知恵と愛くるしさで生き延びてきた。なんとしても、我が国民を飢えさせてなるものかと、それだけを胸に気高く在った。執念、熱意、パッションである。


 吾輩の力量に頼り、すがり、行き場のない猫たちは、皆、吾輩のファミリーである。吾輩に実子はあらねども、皆、我が配下にして家族である。


 今は、そこそこ腕の立つ若いものが、吾輩の群れを率いてくれている。重度の尿結石を患った老猫の吾輩は、彼らの足に付いて行けず、やむなく置き去りになった。


 死にそうな猫に、とどめを刺すほど暇な猫もいなかった。横たわり、腹を上下させながら呼吸するだけの日々。飯ももらうが、高齢による多臓器不全により嘔吐と下痢を繰り返した。


 そして心優しい美大生に介抱され、医者に診せるも虚しく、吾輩は息を引き取った。


 あれが吾輩の、寿命だったのである。



 と言うわけで、命がけの戦争をする気は、吾輩には毛頭ない。襲われたら逃げるのが関の山である。

 しかし、理不尽には決して屈さない。猫たるもの、常に誇り高くありたいものである。


「デーモンちゃん、例の情報だ」


 デーモンちゃんとは、これいかに。女性に名付けて良い愛称ではない。どういったセンスをお持ちか、このアホぅは。


 吾輩の、驚きに見開かれた満月のようなキウイグリーンに、マドンナが気付いて苦笑を浮かべた。


「私の愛称の一つなの。コーヒーデーモンって呼ばれてるのよ」


 コーヒーデーモンとは、これいかに。

 飲み干すほどの美味いコーヒーを淹れてくれる美女に、その食い物の名前とデーモンとを付け加えて愛でる男が、どこにいるのか、ここにいるのである。


 ぜひ吾輩を見習いたまえよ、きみ。まだ女性に対する扱いが長けているほうだぞ。



 青年はテーブルの上に、小さな紙切れを置いた。何の飾り気もない、メモ帳を豪快にちぎったかのような、ともすればゴミにも見える紙切れだったが、マドンナは蛾眉を真ん中に寄せて、彼のテーブルからそれを受け取った。


 我輩がその紙切れを読むには、椅子から降りて、マドンナの横のテーブルに、土足で上がらなければいけない。そこまでの無作法を己に許すほど、野生帰りはしておらん。


 せっかく愛らしい半獣人の肉体で生まれ変わったのだから、ここは子供らしく無邪気なふりをして尋ねるのが正解だろう。


「マドンナ、我輩にも読ませてくれ。いったい何と書いてある」


 椅子から降りて、マドンナのそばまで駆け寄ると、マドンナは紙を見せてくれる代わりに、吾輩と目線を合わせるようにしてしゃがんだ。


「せっかく今日がクロウちゃんの記念すべき初仕事だったのに、明日になりそうだわ。ドッペルゲンガーを専門に倒す組織が、今日中にこの通りを見回るそうなの。今日は危ないから、絶対にお外に出てはダメよ」


 ドッペルゲンガーとは、吾輩の種族シャドウ・キャットが使う固有スキルのことである。他人になりすましてメシをもらう、これといって脅威にならぬはずの人畜無害を生業とする、愛くるしさのみで構成された吾輩たちを、倒す者とは何者ぞ。



 その答えは、わりかし近くに存在した。


 新人店員として明日を華々しく飾るためのマニュアルという書類を、マドンナと音読していたときのこと。その頃には、あの青年は店を出ていたのだが、去り際にマドンナが彼の身を案じるふうな台詞をのたもうたのが、いささか吾輩の心を波打たせた。


 そこにさらなる追い討ちが。なにやら重々しい金属の擦れ合う音、猫の風上にも置けぬ大きな足音、その二つを恥ずかしげもなく響かせて、大道を歩く者がこの世にいるのかと我が耳を疑ったものである。


 マドンナはふかふかのソファから立ち上がり、気の毒になるほど深刻な表情をして、カーテン向こうの窓を見つめた。下賤な足音は、店の玄関前で停止した。


 吾輩も緊張で総毛立つ。


 それを察したのか知らぬが、マドンナが振り向いて微笑んだ。


「私に任せて。あなたは、ソファの後ろに隠れていてね」


 先陣を切って玄関へと向かう彼女の細い背中に、白いエプロンのリボンが揺れる。吾輩はソファの裏にひらりと隠れたが、こっそりと顔を覗かせてマドンナを護衛する。


 隠れ潜むばかりが猫ではない。いつでも飛びかかれる準備はできている。優しくてメシをくれる人間が傷つけられるのが、猫には一番堪えるのだ。


 はたして、可憐な音色のドアベルを鳴らしながら入ってきたのは、奇妙な甲冑姿の人物だった。吾輩は西洋の鎧に詳しくはないが、体の線がくっきりとわかるほどに密着した作りの鎧には、違和感を抱いた。薄い金属の板が魚の鱗のように、細かく組み合わさり、少しでも動いたら、肌や髪の毛が挟まってしまいそうなほどだった。吾輩なら絶対に着たくない。


 それにいったい何だろうか、あの高いかかとのブーツは。もはや凶器である。よくもまぁ、あの細い足首だけで持ち上がるものだ。


 全体的に不自然で、寒気だつ作りをした鎧だった。そんな者が、この愛くるしい店内に入ってきたのだから、悪夢のようである。天使と悪魔がぶつかり合う、抽象画に漂う空気だった。


 マドンナは特に驚いている風でもなく、堂々と客人と話していた。


「ええ、野良はいませんわ。ここに通う子は、全員が登録済みです。名簿をお渡ししましょうか?」


「……」


 甲冑男は、今日来た青年よりは歳をとっている声だった。どこに目玉があるのかわからない兜越しの頭部をぐるりと左右に辺りをうかがい、マドンナの言葉の真意を疑っていたが、ソファの裏にいる吾輩の存在には気がつかなかった。


「いや、結構だ。来るたびに名簿が増えるのでな」


「そうですか」


「開店間際に押し掛けてきて、悪かった。野良のドッペルゲンガーは危険ゆえ、見かけたら通報を頼む」


「はぁい。いつもお勤め、ご苦労様です」


 マドンナの笑顔に見送られ、彼は去っていった。


「あら? クロウちゃんどこ?」


 彼女の振り向く先に、吾輩はいない。立ち去る鎧の肩越しに、あの青年が心配げな顔で様子を伺っている姿が、見えたからだ。


 彼は猫のように木の枝に足を乗せ、数多の葉に身を隠していた。さっきまでソファ裏にいた、吾輩のように。


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