第3話 マドンナと呼ぶに相応しい
我輩的には、もう生卵でもいいのに、女は用意したボールの中に、砂糖に生クリームに、マヨネーズに何やらかんやらと、いろいろ入れてくれた。それらを泡だて器で混ぜ合わせた卵液を、熱した小さな丸いフライパンにジュワッと注ぎ、空気を含ませるために、しばらく菜箸でがしゃがしゃにかき混ぜ、ふわふわになったところで、フライパンを傾けて、軽くトントンと衝撃を与えながら、ぷるぷるのオムレツを形成した。
隣のガスコンロでは、同時進行でケチャップライスも作っており、鶏肉に野菜のつぶつぶと、なかなかに具だくさんで、それらが皿の上でドッキングされた。
吾輩が待機している小部屋は、ごろごろとくつろぐ用で、そこで食べてはならないと彼女は、カウンター席を勧めた。
吾輩は子供ゆえに、大人用のカウンター席が、座りにくいどころか上りにくい。また、この一本足の傘のような椅子というものは、大概、転倒を防ぐために重たく作られており、吾輩の細腕では、引くだけで重労働であった。
決して、もたついていたわけではない。あと少し時間をもらえたら椅子に登れたのだが、おせっかいにも女が気づいて、吾輩を抱き上げて椅子に座らせた。
柔らかな明るい色彩のテーブルに、ハート型の白いお皿、その上に形の綺麗なオムレツが待っている。女はナイフで真ん中から切り込みを入れると、オムレツがふわっと広がって、下のチキンライスに優しく広がるのだ、とかなんとか説明していたが、餌を前にして行儀よく待てをする犬でもあるまいし、吾輩は皿を両手で掴むと、飲み物のようにしてオムレツを、口の中でオムライスに噛み混ぜて、むしゃむしゃと音を立てて、食べてしまった。
下品などと言うなかれ、空腹の腹に目一杯うまいものを詰め込むのは、生き物として当然の姿、ありのままの姿、責めるべきはこのように生き物を創造した誰かさんであり、決して吾輩に非は無いのである。
百歩譲って非があるとすれば、己の猫舌をど忘れしていたことだろうか。出来立てのオムライスは、吾輩にコップの水をたっぷりと飲ませた。
これは猫の獣人に熱々のオムライスを提供したこの女が悪いと思う。メシはなかなかに美味であったが、火傷した舌先をペロリと出して、無言で抗議すると、女のほうが苦笑した。
「よっぽどお腹が空いてたのね。オムレツをきれいに切ってゆっくりオムライスにして、さらに冷たいケチャップで、大きなハートを描いてあげたら、食べやすいくらいに冷めたのに。ふふ、お水のおかわりあるわよ」
吾輩の小さな肩をそっと片手で抱き寄せ、顔を近づけてくる。吾輩の目を覗き込む彼女の瞳は、金色で。まるで荒野に浮かぶ、かけがえのない月のようであった。
綺麗な月であった……。
「マドンナ」
吾輩ははっきりと、その名を口にした。もちろん彼女に向かって。
彼女はびっくりしていたが、両眼を三日月のように細めて、嬉しそうに笑った。
「素敵な名前ね、うれしいわ」
たった今より、目の前の美女は、マドンナとなった。吾輩のマドンナである。
お互いの頭を擦り付けて、喜んでいると、吾輩の脳裏にマドンナから言われた提案が顔を出した。
確か、マドンナはこう言っていた。我輩にここで働いてもらいたいと。つまり、猫喫茶の店員になってほしいと。
一飯の恩、そしてこれからも彼女と笑い合えるのならば、その提案に乗るのも悪くないのではないか。
気まぐれと言うな。吾輩のこの急激な心変わりを、気まぐれと言うなかれ。雄とは、こういう生き物である。
吾輩が一飯の礼を兼ねての労働提供を、マドンナと結んでいたときのこと。
板チョコのような可愛らしい扉が、ドアベルを鳴らしながら開かれて、そこそこ顔の良い素朴な雰囲気の青年が、「こんちは〜」と、浮かれた声で、浮かれた足取りで、店に入ってきた。その楽しげな仕草といい、表情といい、物腰の軽そうな雰囲気といい、そしてすぐにマドンナへと向いた視線が、この青年の目的を如実に表していた。
思わぬ好敵手である。露骨に張り合うつもりはないが、なんとなくこの青年とは、マドンナをめぐってたびたび張り合うことになる運命を、この聡い猫は知ることとなった。
無論、新参者の吾輩が、やすやすとマドンナの隣を明け渡す、わけがない。それは青年にも伝わったようで、一瞬だけだが、重なった視線に火花が散った。
しかし、吾輩も彼も優先順位は、マドンナからの好感度が上位を占める。この場ですぐに決闘を申し込むような無粋な真似はしなかった。
青年は適当に空いた席に座り、カウンター席の吾輩とは距離を置いていた。マドンナが注文を取りに、青年のもとを訪れる。
彼の注文は、「いつもの」だった。さりげなく常連であることをアピールしている。だが、多くの常連客が使う、この「いつもの」という便利な一言が、どれだけ多くの店員を苦しめているかを、客商売をやったことがない人間はわかっていない。
金を払う側がふんぞりかえるのも大概にせぬと、愛らしい店員から好感をもたれる事は永遠にないだろう。
よって、欲しいものを明確に言葉にできる吾輩のほうが、一点リードである。
「常連さん」
マドンナが吾輩を安心させるように、そっとささやいて厨房に入った。
コーヒーが抽出される音は、なかなかに猫を驚かせてくれる。てきぱきと用意されていくのは、白いカップに並々と注がれたカフェラテだった。
仕上げに、ハートのラテアートだ。黒めの水面に、さらさらと素早くミルクのハートが浮かぶ。爪楊枝でさっと撫でて、ハートのくぼみを作るのがポイントである。
吾輩の爪でもできそうなのも、ポイントが高い。
青年が欲したのは、甘さ控えめのカフェラテだった。甘さは控えめでも、ラテアートはしっかりお願いしている。
マドンナが白いカップをソーサーに乗せて、お盆にのせて、「お待たせしました。いつもありがとうございます」と鈴の音のような声で愛想を添えて、青年の座るテーブルへと運んで行く。
大の男が、可愛らしい飲み物にハートのラテアートを浮かべて「いつもの」とは。これが青年なりの、周囲の客への牽制なのだ。
現に、コーヒーをすする青年には余裕が見られた。吾輩とて客人をじっと眺めていたわけではない。背を向けていても、皮膚に伝わる微妙な圧により人間の気配や感情がわかるのだ。いまだ現代科学で解明されていない、動物の神秘である。
しかしこの青年は知らないのだ。吾輩は今日は一日このマドンナのもとで、店員として勤める。それすなわち、たった一杯のコーヒーで席を立つ運命の青年よりも、長く彼女といられることを示す。
吾輩の方が二点も三点も、いや五点ぐらいリードしているのである。
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