第2話 マドンナを想起させる美女
空腹時、なんでも作ってくれるふうな風を吹かす人間がいたとしよう。空腹時であるからして、その者がたとえ悪党であったとしても、今なお三味線を猫の革で形成しようとたくらむ業者の回し者であったとしても、飢えに苦しむ者は足元を見られ、ある者は容易に連れ去られて、二度と戻ってこないのである。
という最悪な現実にも対処するための心得はできている。この女の厚意を無碍にするのはいささか気が進まぬ、であるが、吾輩とて命が惜しい。もしも恐ろし気なる気配を悟ったら、そのときは、一目散に逃げ生き延びる所存である。
「着いたわよ。ここが私の、愛しのお店♡」
そんなわけで今、吾輩は女の営む店の前まで来ている。前世の話に入ろう、給食のパンを貢いできた少女たちのランドセルに、このような色合いのものがあった。夢カワとかドリームカラーと言うやつだ。恐ろしくふわふわとした色彩が飛び交い、何の店かぱっと見ただけではわからない。さながら注文の多い料理店のような、入ったら何をされるかわからない、そんな雰囲気に満ちた外装だった。
観音開きの玄関扉の真上に、木彫りの看板が下がっていた。この国の文字が、装飾たっぷりのくるくるとした筆記体で描かれている。
吾輩は、大勢の人間と渡り合ってきたため、ある程度の教養があり、文字も読める。それはこの世界に生まれ変わっても、我輩に文字を解する努力を促し、お手軽に知的好奇心を満たす些細な娯楽として、楽しませてくれる。
知識とは、永遠の友だ。不安も憎悪も、知識さえ取り込み続けていれば、いつしか消え去り、あらゆる不可能への克服へと繋がる。吾輩は猫であり、最後までそれ以外の生き方ができぬ身の上ではあったけれども、一度だってそれに嘆き続けたことはない。知識を取り込み、たとえ時間がかかっても前に進める己の前足を、いつも誇らしく思っていたからだ。
人間は考える葦だそうだな。
では
そんなわけで吾輩は、この店の店名を読むことができた。「喫茶ドッペル」とは、なかなかにいかつい響きである。
「ねぇドッペルゲンガーさん名前は?」
前世の吾輩は、「名前はまだない」と言うわけのわからない言葉を人間から言われたのを思い出した。猫と呼ばれていたこともある。タマとかクロとも呼ばれた。人間が吾輩を好きに呼ぶのは、吾輩の名前がわからないからである。でも今は、親から名前をもらい、人間と会話し、交流ができる。
吾輩は子供であるがゆえに、同種よりも思い切り小柄な自分自身の胸に手を当て「黒」と名乗った。単に毛並みが黒いから黒である。目の色はキウイグリーンという鮮やかな翠眼で、我ながらとても気に入っている。もしも諸君が覗き込むような機会があれば、称賛の限りに褒めてくれることを許す。
「そう、クロウちゃんていうの。かっこいいわ。ここは見ての通り喫茶店で、屋号はドッペル。この店はドッペルゲンガーさんを雇って、あなたたちについてお客様に知ってもらう施設なの。ああ、もちろんお客さんは店長である私が選ぶわよ。理解のないお客様や、説明を記憶してくださらないお客様に、あなたの肌は触らせませんもの」
喫茶店の調理場で、卵料理を作ってくれると約束され、腹の虫が鳴りやまぬ吾輩は、もちろん了承したのだった。
喫茶店、それは吾輩も何度か世話になったことがある。神社向かいに、すぐに撤退してしまったが小さな喫茶店が建っていた。寝不足のサラリーマンと、化粧の間に合わないオフィスレディがかけこむ、憩いとは程遠い忙しない店だった。
そこは確かに、皆から必要とされていた。吾輩もあの店は繁盛すると見込んでいたし、店を切り盛りする人間たちも、吾輩率いる弱小猫国家に友好的であった。
しかし人間社会とは、いかにしてそこまで残酷になりえるのか、チェーン店とは、そういうものなのか。親会社の経営不振により、かの者の店は撤退された。
代わりにコンビニが入ったが、店員は店の残り物を吾輩たちにはよこさなかった。近所づきあいのわからぬ輩である。猫にくれてやるくらいならと、自分たちのおやつに唐揚げを食べているのかもしれない。あるいは、たまたま店の者が全員、大の猫嫌いだったのかもしれない。
客が弁当の残りを、吾輩たちに貢ぐ機会が増えたのは、まあまあにして都合が良かったが。やはり店員からの直接的かつ友好的な笑みととに貢がれることこそが、猫国家の存続に繋がるのであるから――持てる者は持たざる者に、多少なりとも与える義務がある――これすなわち世界平和の第一歩、
さて、店主とともに店に入った吾輩の目に飛び込んできたのは、外観に劣らずファンシーな空間であった。ドリームカラーのクッションは、いったいどこの女子の私室から持ってきたのだろうか、ふかふかで今にも飛び込んでしまいたくなる。
レジどころかレジを置く台まで、ファンシーであった。星と太陽のきらめく飾り付けが、窓からの斜光に喜んでくるくると回転している様は、思わず前足から爪を出してひっぱたいてやりたくなった。
店奥には、懐かしい、様々な味と種類のコーヒーを作る機械が、仏壇のように鎮座している。さすがにそこはファンシーではなく、バリスタなるプロの領域、漆黒色の機械はまるでピアノに触らせぬ気難しい音楽家のようであった。
コーヒーの匂いがする。嗅覚とは、記憶に一番に結びついているらしい。吾輩率いる猫国家は、理不尽な横暴さに打ちのめされるたび、住居を変えた。その苦々しい思い出は、猫喫茶なる風変りな店によって、おもしろおかしく変えられた。
店員に猫がいるのだ。
保護猫らしい。
来る客みんなが、猫が大好きで、優しかった。未だ新たな住居の目途が立たない吾輩たちは、束の間の飢えをしのぐために猫喫茶の近くを陣取り、客のすねに愛想をこすりつけて食料を分けてもらった。
猫喫茶は有料であるが、我ら野良は無料である。無料ついでにタダ飯を食い、たくさん撫でてもらい、そうしているうちに、猫国家は再び歩みを取り戻してゆくのである。生きる活気とは、他者から与えられることのほうが多い。
店の窓から、保護猫たちが吾輩たちを眺めていることがあった。彼らはガラス越しに挨拶をしたがり、我々も応じて、たびたびガラス越しに鼻先をくっつけあった。あまり見つめ続けるのも気まずいので長居はしないが、人から愛される術を学んでゆく彼らのことを、ほんの少し羨ましく感じる反面、やはり我々のような軍団は半径三キロメートルかけて散歩するくらいが丁度よいと開き直ってしまう。
保護猫の中で、とびきり美しい猫がいた。すぐに貰い手が見つかり、会ったのはたったの二回だけだったが、ガラス越しに鼻先を重ねた日のことは、今でも思い出としてこの胸に刻んでいる。
「マドンナ」
ふいに口にしてしまったのは、極限まで至った空腹で意識が朦朧としてきたせいだ。
振り向いた女の仕草から鈴の音が聞こえたのは、首輪に髪飾りのリボンに、金の鈴が付いていたからだろう。
「何か言った?」
空腹時にもなけなしの羞恥心を握りしめて、吾輩は首を横に振った。女の雰囲気と、ほんの少し眠たそうなまぶたの下り具合が、またなんともマドンナを想起させた。
そんな女が、にっこりと笑う。
「すぐに作るね」
吾輩はふっかふかのドリームクッションの上に下ろされた。疲れ切っていたから、黒く長い自慢の尻尾で自身をくるんで、しばらく横になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます