第1話 女神様とやらが、のたまうには
大学生の腕の中で眠りについたはずだったが、やたら、ハァハァと言う荒い息が上から降ってくるので、うるさくて目が覚めた。
頭だけで見上げると、涙と鼻血をぼたぼた流した変な女が、吾輩を見下ろしていた。そのニタニタ笑いは、今思い出しても背筋が凍る。毛布だと思っていたのは、この女の腕と、やたらふくよかな胸だった。生ぬるい体温だ。下ろして欲しい。
「やっとゲットした、この世界の可愛い生き物! その生前の行いたるやヨシ! ネコちゃんだけど超絶グッボーイ!」
よしよしと頭を撫でられる。この行為自体は嫌いではない、むしろ好きだが、鼻血を流しながらやられたのは未経験であった。
無論、吾輩はこの女に見覚えは無い。この、バスタオル一枚巻いたような、正気を疑う格好をした人間に見覚えは無い。さらには、この女からは人間らしい匂いがしない。まるで水か空気、否、大都会の空気は人間臭かったりするから、空気は比較対象にならぬ。
例えるなら、そう、どこぞの人間が吾輩に貢いだ、コンビニ弁当の残りの、白飯だ。あの匂いがする。
つまり無味無臭である。
垂れ流している血の匂いもしない。こいつは人間では無いのかもしれない。ではなんだろうか、天寿を全うした吾輩を迎えに来た天女とでも言うのだろうか。
「ねーネコちゃん、私の愛する国に、生まれ変わってみない? 私ねぇ、どうにもかわいい種族を創造する才能がないみたいなの。あれこれこねてみるんだけど、いまいち出来が良くなくて、結局世界に生み出してあげることができなかったの。だから、他所の世界からかわいいものをたくさん集めて、うちに来ないかってスカウトしてるの。あなたは、動物的だけども、実に素敵な性格をしているわ。私の作った、あんまり可愛くない寂しい世界に、色を添えてちょうだい。いいかしら?」
もう一度、生まれ変われと言うことか。それがどういった意味かはわからないが、吾輩にとって重要なことは一つだけだから、それさえ満足のいく答えが返ってきたら、快諾するつもりだ。
吾輩はこの女に尋ねた。お前の世界には、美味いものはあるかと。
「ええ、食べ物はおいしいわよ。住んでる人は、優しい人もいれば、捻くれちゃった人もいるけどね、まぁどこの世界にも、いろんな性格の生き物はいるわよね。特別やばいって世界でもないと思うわ」
飯がうまい。それは我輩が快諾するに充分な条件だった。
奇妙な女があったものである。何の自己紹介もなく、鼻血だけ流しながら、吾輩を大きなゆりかごに乗せると、美しい夜が終わりを迎えるかのように、名残惜しそうな顔で吾輩を見送った。
吾輩は、黒猫のような耳と尻尾が生えた女の腹に宿り、赤子として産み落とされ、大事に育てられた。
吾輩は「ドッペルゲンガー」と言う、なかなかに謎めいた種族らしい。ドッペルゲンガーには独自の
その騙し方と言うのは、その人間がよく知っている人間に化けて、なんだかんだ適当に話を合わせて、ちゃっかり食べ物をもらってしまうと言うもの。
とある人間は、亡くなったはずの親族が目の前に現れてしまい、恐ろしくなってお供え物感覚で食べ物を投げてきたそうだ。またある人間は、縁の遠くなった友人に再会できたと勘違いし、長らく語り合ったそうだ。結局正体がドッペルゲンガーだとばれてしまい、これをもって消えろとばかりに食べ物を投げつけられたそうだ。
またある人間は、本物だろうがドッペルゲンガーだろうが、あえて嬉しいと言って、手料理含め手厚く歓迎してくれたそうだ。
さて読者諸君、この話を聞いたときに我輩がどう思ったか教えてしんぜよう。ずばり、楽して飯が食える、であった。適当にスキルを発動すれば、人間が勝手に勘違いして飯をくれるのである。生前の吾輩の生活と何の違いもない。否、生前など寝転がっているだけで愛されていたから、後者のほうが労働している。労働は尊いものであるから、吾輩の生きるすべもまた尊いに値する。
人間のように人里に出て働かなければならないと言う点が、生前と違うところだ。ドッペルゲンガーは、早いもので三歳、吾輩の場合は5歳で、独り立ちを命じられた。これからはスキルと、話術を磨きつつ、どこか寂しげな人間を狙い、食べ物を狙いに近づくのである。無論我輩も、痛い思いはしたくない。優しそうな人間を見分ける術も身に付けなくてはならないが、これに関しては、生前に多くから愛された経験があるから、きっと大丈夫だろう。
母親と言う存在から、別れを切り出された時は、眠れぬほど泣いて枕をぐっしょり濡らしたが、生前の自由気ままな野良だった生活が忘れられない吾輩は、母から持たされた空っぽの弁当箱をリュックに背負って、人里へと旅立ったのであった。
頭の中の想像と言うものは、なんともたやすく物事を運ぶものである。現実とは、常々志をくじき、若者を絶望させ、ひどいときには飢え死にさせる。
懸命に人間に近づいては、スキルを使うが、怖がられて逃げられてしまう。せめて食べ物を投げよこしてくれたらいいものを、飛んできたのは石だった。
空腹で目を回して、座り込んでいたときのこと、
「あら、かわいい♡」
金色の長い髪を、頭の両脇で二つくくりにした、メイド喫茶風のエプロン姿の変わった女が、吾輩を見るなり声をかけてきた。
「ねぇ、あなたドッペルゲンガーでしょう? 食べ物いっぱいあげるから、私の話を聞いてほしいの。お時間、いいかしら」
なんとも甘やかなる可愛らしい声だ。料理が手慣れているのか、ほんのりと食材の匂いがした。空腹である吾輩が、抗えずに同伴してしまうのも仕方のないことである。その細腕に包まれて、白く柔らかそうな首筋が目の前に迫ったとき、一舐めしてやったらくすぐったそうに笑われた。
女は小柄で、おそらくまだ成熟してはいない。人間関係がうまくいっているのか、道行く人々が彼女に挨拶している。彼女もそれに愛想よく手を振っていた。この女の要領の良さと、能力の高さがうかがえる。
この土地は、どういうわけだか霧がかり、湿気が多い。石造りやレンガ造りの家が多く、湿気対策だと思われた。こんなところで地下室なんて作ろうものなら、カビの温床へと変貌するだろう。
「そうだわ、ドッペルゲンガーさん。そのかわいいお耳は隠しておかないとね。私が肩にかけているケープを、あなたにあげるわ。これを頭にかけて、くれぐれも頭のお耳を隠してね」
我輩がこの頼みを断る理由があるだろうか。食材のように腕に抱えられている吾輩は、おとなしく布を頭にかけた。
女が目指したのは、朝の市場だった。あまり物流に恵まれていないのか、量は多いが質は悪そうだ。種類も豊富ではなく、同じ野菜が山盛りで箱に乗っている。そしてそれが、すごい勢いで買われていくのだから、選り好みできる環境でもないのだろう。
人間が前世の吾輩に貢いだ食べ物の種類は、じつに豊富であった。今この世界では、毎日の弁当の代わり映えのしない見た目に、台所当番がため息をつく姿が目に浮かぶようである。
さて、我輩に声をかけてきたこの女だが、歩くたびに揺れる大きなスカート、フリフリのエプロンに、揺れる軽やかな二つの長い髪が、とてもよく目立つ。皆黒々とした地味な格好して、さほど裕福でもない雰囲気を醸し出しているが、この女は皆と住む世界そのものが違うかのように、明るい服を着、レースを揺らし、ルンルンと鼻歌を口ずさむ。
女は吾輩に、何か食べたい料理があったら作ると言ってくれたが、吾輩はこちらの世界の料理の名前がわからないので、弁当にしてくれるなら何でも良いと答えた。
「それじゃあオムレツ弁当にしましょうか。ケチャップで猫ちゃんの名前、書いてあげるわ」
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