その病院には牛刀を持った女が出るとの噂があった
私はそろばん塾に向かってママチャリを走らせていた。明るい日差し。夏の午後。セミの鳴き声がせわしなく響いていた。そろばんは、あまり好きでもなければ得意でもなく、級も高くなかった。どちらかというと家で漫画でも描いてる方が楽しかったが、惰性で続けていた。前かごに入れたそろばんと、筆記用具が入った手提げ鞄が、ペダルをこぐたびカチャカチャと音を立てる。交差点をわたり、住宅街へ入る。この道の、右は戸建て、左は病院の裏手である。
裏門に差し掛かったところで、べちゃっと、何か冷たいものが胸元に落ちてきた。慌てて自転車を止めて確認した。泥だった。
なんで泥が?
あたりを見回しても誰もいない。路地は静まりかえっている。ブラウスにはべったり泥がついてしまった。仕方ないので来た道を戻って家で着替えた。
もう一度病院の裏手に差し掛かったところで、またもや泥が落ちてきた。今度は二つ食らった。一つは頭に当たった。間違いない。誰かが、どこからか私を狙って泥団子を投げているのだ。しかし依然として静まりかえった病院の裏手には、人影はない。二度目の着替えは、汚れてもいい服にした。もうそろばんに行く気は無くなったので、鞄は別のものに替え、わざと同じ道を通った。
泥団子が飛んできた。病院の非常階段に人影がある。私は自転車を放りだして、裏門を飛び越えた。自慢じゃないが、私は体がきく方だ。無言で階段を駆け上がる。2階、3階の踊り場を曲がったところで男の子二人を視認した。二人は階段を駆け上がってきた私を見るなり悲鳴を上げて4階に逃げた。なおも追いかけた。無言で、一心不乱に。
しかしながら、私は二人を取り逃がしてしまった。
4階の病棟に続くドアの鍵が開いていて、中に逃げ込まれてしまったのだ。
ノブを回してみたが、中から鍵がかけられていた。
ちっ!不覚とひとり呟き階段を降りる。奴らが使った、泥でいっぱいのバケツが3階に置きっぱなしになっていた。よくもこんなにたくさん。石でも中に入れられなかったのが幸いだった。今更ながらに怖くなる。考えてみると相手は二人。よく考えたら、怒り狂ってるとはいえ、こんな小柄な女子中学生一人に何ができるというのか。それになんでよりによってこの道なのか。他にも人気のない高い建物はあろうに。やっぱり私は間が悪いんだな。
ともあれ相手がビビリで逃げてくれてラッキーだったのではないか。そう思うことにした。私は額の汗をぬぐって、手に持った60センチの鉄定規を手提げ袋にしまって、その場を後にした。
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