ケンイチ・マヨネーズ

詩川貴彦

第1話 出勤簿

ケンイチ・マヨネーズ 


「出勤簿」


 カミカワ・ケンイチ先生は、コロッケのモノマネにその容姿がそっくりなので「ミカワ先生」と呼ばれています。

 ミカワ先生は、こう見えても数学の先生です。数年間の他県勤務を経て、家庭の事情で採用試験を何度も受け直して、やっと戻って来たそうです。

 ミカワ先生は、毎朝出勤すると、まず始めに「出勤簿」に押印することにしています。ミカワ先生が以前勤務していたところは、そんなものはとっくの昔に廃止になっていたそうですが、ここには堂々とそんなものが残っていて引いてしまいました。

 ミカワ先生は、そういう習慣がなかったので、押印するのをよく忘れていました。月末にようやく思い出して、無駄だと思いながら、トントンまとめて適当に押印していました。しかし、周りの同僚、先輩たちをを観察したら、みんな似たり寄ったりだったので、少し安心しました。中には学期末にまとめ押しする方もいらっしゃって、みんな適当にやっているのがよく分かりました。しかし、ある事件をきっかけに、朝来たら必ず出勤簿に押印することを心がけるようになったそうです。


 昔むかし、ある中学校に、ワタル先生という大ベテランの仕事がバリバリにできる先生がいらっしゃったそうです。

 ワタル先生は今では絶滅危惧種となった組合の先生で、いつも同僚や生徒たちの人権を守るために日夜活動しておられたそうです。

 その中学校に、春の人事異動で、部下に厳しいことで有名だった教育事務所上がりの某校長がやってきたそうです。同僚の皆様は「この二人は近いうちにきっとぶつかるだろう。」と、期待と不安で密かにワクワクしていたそうです。

 それは突然やってきました。ある日あるとき、校長が職員室にやってきて、突然出勤簿の点検を始めたそうです。実は職員の皆様は、この校長がやって来て以来、こういうことはきっとあるだろうと警戒して、毎日せっせと押印をしていたそうですが、ワタル先生だけは、どこ吹く風とばかりに、自分のやり方を決して変えようとはしなかったそうです。そして・・・。

 校長はわりと強い口調で、ワタル先生を注意したそうです。

「ワタル先生。あんたはまったく押印しとらんけど、どういうことか。」

たぶん校長は、強く言えば他の先生方と同じように、ワタル先生がビビると思ったのでしょう。ところがワタル先生は、

「はあ↑。ワシも人間ですけえねえ。忘れることぐらいありましょうが。」

と、校長の10倍ぐらいの強い口調で言い返したのでした。

 職員室が静まりかえり、誰もが硬直した瞬間だったそうです。すぐに校長は

「気をつけんさいよ。」

と言いながら、黙って出て行ったそうです。

 当県の自慢は、大人しくて真面目で争いごとを好まない県民性です。管理職の言うことは絶対です。逆らう者など誰もいないご当地です。おそらくこの校長は、生まれて初めてこういう経験をしたのではないでしょうか。お気持ち察します。この一件は今でも「ワタル先生の反乱」という名で教職員の間で語り継がれています。

 ところがこの話を、地獄耳で有名な、そして「ひと・もの・こと」を揶揄することが三度もメシより好きなヤユミ・ウスオ先生が知ってしまったから大変です。彼によって、この事件は、光よりも早く市内全体にいくぶん大きくなって伝わっていきました。そして翌日には、市内の教職員の末端に至るまで、まさに全員が知ることとなったのです。

 そのヤユミ先生、現在は、ミカワ先生と同じM中で勤務しています。あれから数年も経っているのに、しつこく蒸し返しています。そうして、毎朝、この忙しいときに、みんなの出勤簿をチェックして、もし押印していない個所を見つけると、鬼の首を取ったように嬉々として、

「〇〇先生。あんたはまったく押印しとらんけど、どういうことか。」

とモノマネをするのです。そう注意されたら、

「はあ↑。ワシも人間ですけえねえ。」

と答えなければならないことになっているのです。それからみんなで

「アハハハ。」

と馬鹿笑いをして、一日が厳かに始まっていくのです。

 校長も教頭も苦笑いしてその様子を見ているしかないのです。まあ何にしても、そのおかげでM中職員の出勤簿の押印率は100%を維持していますので、誰も文句のつけようがないのですが。

 ミカワ先生は、今日も押印だけには気をつけて、それから机の2段目を開けて、あふれるほどストックしてあるお菓子の中から、器用に饅頭を取り出してほおばりながら、和やかに始まっていく朝の景色を見るのが大好きです。この学校に勤務できて本当に良かったと心から思っているのです。

 ちなみに、長期の休み明けに、大量のゴキブリが発生するという大事件がありました。ミカワ先生の机を中心とする同心円状に被害が広まっているので、その原因は明白なのですが、この世界の方々は何よりも波風を立てるのが嫌いなので、誰もが苦笑いをするだけで済ませるのが慣例となっています。よかったね。ミカワ先生!


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ケンイチ・マヨネーズ 詩川貴彦 @zougekaigan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る