ロッシュ限界を超えて

ロッシュ限界を超えて

 スピカはいつの間にか、魂のみの状態となって宙に浮いていた。

 頭上には、どこまでも深い黒の空。足元には、光り輝く麦穂の絨毯じゅうたん

 その中で、少女が舞っている。両手を広げ、黒髪をなびかせ、くるり、くるりと回っていた。

 あれは自分の体だと、スピカはすぐに気付いた。自分の魂が切り離されているのに、体が動いているということは、つまりエウレカが体を奪ってしまったのだと気付く。

 体との繋がりはもうない。自分はただ見ているだけの存在と成り果ててしまった。

 これではどちらが亡霊なのやらと、スピカはため息を吐き出そうとして……


 吐息が出ない。


「ああ、本当に……」


 自分は亡霊なのだなと理解した。

 当たり前にできていた呼吸という行為が、今やできない。息苦しいことはないし、必要がないと言えばそうなのだが、できないという事実はスピカを打ちのめすには十分な程に残酷だった。

 エウレカは動きを止める。スカートが、髪が翻り、やがて落ち着いた。

 スピカは、エウレカの正面に回り込む。

 念願だった体を手に入れて、エウレカはきっと笑っているのだろう。そう思って顔を見てみれば、予想とは違う表情があった。

 エウレカは泣いていた。赤い瞳から涙をこぼし、小さな両手で顔を覆う。


「エウレカ?」


 スピカは、手を差し出そうとして気付いた。魂だけの自分には、今や差し出せる手がないのだ。

 彼女の涙を止めてやりたいのに、どうにもできない。もどかしい。


「エウレカ?」


 スピカは呼びかける。エウレカからの反応はない。ただ泣きじゃくる顔が目の前にあるだけ。きっと、エウレカにはスピカの呼び掛けが聞こえないのだろう。

 今のスピカは、声すら持たないようであった。

 何もできることがないとわかると、スピカはエウレカから離れた。

 自分には何もできない。関与すらできない。死んでしまったようなものだ。


 気付いた。

 自分が今死んでいるのであれば、母が願った通りの展開になっているはず。カオスの進行は止まり、冬が訪れるのではないか。

 だが、辺りを見ればカオスは徐々に進行している。星月は光を失い、空は色を失いつつあるのだ。


 それとも、見落としがあるのだろうか。


 ……

 …………

 呼ばれた気がして、スピカは振り返った。

 麦の塔の最上階には、スピカとエウレカ以外に誰もいないはず。

 声をかけられたわけではない。手招きをされたような気がしただけだ。

 見えないはずの背後から? 有り得ないでしょう。と、スピカは自嘲する。

 だが、確かにそこに何かいる。麦の塔の最上階、ステージの中央に。

 スピカはそちらに近付いた。


 編み上げられた麦穂の床を貫いて、白鳩が目の前に現れた。


「アヴィ……?」


 スピカは呟く。それは確かに、アヴィオールの輝術であった。

 白鳩は、何かをスピカの目の前に落とした。手を持たないスピカは受け取ることができず、床に落ちたそれを見つめた。


 古びた紙片であった。

 日記のようであった。

 スピカは食い入るように見つめた。


『エウレカを咎めるも許すもあなた次第。選択しなさい』


 真新しいインクで書かれたそれを、スピカは見つける。


「咎めるも……許すも……」


 意味がわからず、スピカは呟く。


 次の瞬間、スピカの周りにある景色は、全く違うものになっていた。


「これは……」


 麦畑であった。

 先程まで麦穂を硬く編み上げられていた足元は、ふかふかとした土に。

 色を失った真っ黒な空は、金色の夕日に。

 何処までも広がるカオスは、何処までも広がる麦畑となっていた。


「なに、これ?」


 スピカは呟く。

 腰まで伸びる麦穂は、時折吹き抜ける風に撫でられて、サラサラと音を立てる。


『お父様』


 声が聞こえ、振り返る。

 麦畑を掻き分ける少女の姿があった。髪は金、瞳は青。歳はおそらく十歳程度だろうか。

 彼女は麦畑の中へとぐんぐん進み、その先にいる男性に抱き着いた。

 歳は違うが、何度も見ている姿と同じもの。彼女はエウレカ。この景色は、エウレカの過去であった。


『お父様、お母様がお呼びよ』


『ああ、もう帰るよ』


 男性は、エウレカの父親なのだろう。エウレカの小さな手を握る。

 スピカはエウレカの目を見た。父を見上げる彼女の目は、無邪気で愛らしかった。


『エウレカ』


 ユピテウスがエウレカの名を呼ぶ。


『なあに? お父様』


 エウレカはユピテウスを見上げる。


『愛しているよ』


 父の言葉に、エウレカはにっこりと笑顔を浮かべる。


『私も。お父様のことは、二番目に好きよ』


 エウレカは父の腕を抱き、寄りかかって甘えている。


『私は二番目か。はは、残念だ。一番は誰だい?』


 父親は茶化して尋ねる。

 エウレカは途端に両頬を染め、ふふっと声に出して笑う。


『お父様も知ってる人よ』


『……アークトゥルスだろう』


 想い人を言い当てられ、エウレカは目を真ん丸に見開いた。


『びっくり。何で知ってるの?』


 父親は、その質問には回答しない。


『彼は由緒ゆいしょある騎士の家系だ。彼自身も、騎士としての誇りを持った立派な男だ。

 まあ、二人とも、結婚するにはまだまだ早いがな。その時が来たら、私は君達を祝福しよう』


 父親に認められ、エウレカは嬉しさから笑顔を顔いっぱいに広げる。


 次の瞬間、景色が真っ暗なものに変わった。


 粘ついた壁に圧迫され、苦しさにあえぐ肉塊。

 エウレカは、ラドンに食われている。


「助けて……アークトゥルス……助けて……」


 指が欠けた手を伸ばし、壁を掻く。しかし噛み砕かれて、飲み下される。


「咎めるも許すも、乙女である君次第だよ」


 突然、知らない声に尋ねられた。

 スピカは辺りを見回した。しかし、見えるはずがないことはわかっている。

 声は、自分の意識の中に響いてくる。


「あなたは……」


 誰と言いかけて、唐突に理解した。


「この星の光、そのものね」


 スピカの周りで光が踊る。くるり、くるりと旋回し、スピカの魂にまとわりつく。

 今まで失っていた姿形が、光によって具現化される。スピカは自分の見た目を取り戻した。

 触覚がないあたり、見た目しか取り戻していないようだが。それでもないよりはマシだった。


 景色が変わる。スピカの魂は、元の世界に戻って来ていた。

 スピカはエウレカを振り返る。今の姿であれば、視認してもらえるのではないだろうか。

 エウレカに手を伸ばし、肩に置く。しかし実体がないスピカの手は、肩をすり抜けて落ちてしまう。やはり気付かれないのだとわかると、切なく、物悲しくなった。


「ボクはね、星の賢者達を見守っていたんだ。数万年間、ずっと」


 光が舞い、声が響く。スピカはそれに耳を傾ける。


「だけど、ボクの自我は光の奔流の中にあるから、春待ちの輝術でないと意識を保つことができない。

 やっと会えた。やっと、伝えることができる」


 声は嬉しげにくるくると回る。右前から聞こえていたかと思えば、今度は左後方から。

 伝えるって何をかしら、と。スピカは疑問に思う。その疑問は筒抜けであったようで、スピカが何も言わずとも、声は答えた。


「エウレカを許してほしいんだ」


 背後から聞こえた声に、スピカは振り返る。

 そこには、白鳩が貫いた穴がある。中を覗き込むと、並々と星の海が注がれていた。

 スピカは疑問を抱くことなく、その中へと足を踏み入れる。底がない、深い深い海に、スピカの魂は沈んでいく。

 息苦しさを覚悟して目も口もぎゅっと閉じたのだが、そもそも呼吸をしていないのだと思い出す。スピカは小さく瞼を開けた。


 海の中は、光で埋め尽くされていた。

 赤、青、白、黄……様々な色が弾けては消えていき、また別の色が生まれる。それらはまるで、恒星の一生のようだ。

 例えるなら、スーパーノヴァ。


「これがキミ達、この星に生きる、いのちの煌めきだよ」


 声は圧力を持って、スピカの魂に響いてくる。

 星の光は、今や星の海そのものだ。この星の命そのものだ。スピカはその中に居る。その事実が、どうしようもなく温かい。


「キミに見せたいものがあるんだ」


「私に?」


 星の光に言われ、スピカは問い返す。


 スピカの目の前に景色が広がる。

 そこは、上下も左右もない、完全なる黒の中だった。これこそがカオス。星の終わり。


「これは、始まりだよ」


 声が響く。


「ボクは、気付いたらカオスの中にいた。長らく独りでね。だけど、独りはとても寂しかったんだ」


 カオスの中に、ぽつんとタマゴが現れた。タマゴに亀裂が入り、ぐらりと揺れる。コツコツと、何者かが内側からノックしている。

 中から現れたのは、金色に輝く竜であった。あまりに巨大なその竜は、黒の中で咆哮ほうこうする。

 辺りが色で覆われた。赤、青、白、黄。それらが世界に彩りを与え、新しい色が生まれる。それらは世界に広がっていく。

 光が生まれた瞬間であった。あまりの美しさに、スピカはただ見とれる。

 光から様々な生き物が生まれ、緑が生い茂った。海には魚が、陸には竜が。それらは平和に生きていた。


「でもボクは未熟なんだ」


 数千年の時を経て、世界は再びカオスに包まれる。黒に塗りつぶされ、残ったのは数頭の竜のみである。

 最初に生まれた金色の竜が、その身を光に捧げた。体は解けるように消えていき、光となって世界に浸透する。

 世界は再び色を取り戻し、海には魚が、陸には竜が根付いた。


 数千年の時を経て、世界は再びカオスに包まれる。


 ひたすらにその繰り返しだった。

 数千年のいのちと、数千年のカオス。それを幾度となく、幾度となく繰り返し、星は疲弊ひへいしてしまったようだ。

 カオスを繰り返す度に荒廃していく世界。スピカはその景色に心を痛めた。


「竜はいのちそのもの。カオスが訪れた際には、その身を光に解いて大地を輝かせる役目があった。

 でも、自分の死と引き換えにボクを目覚めさせるなんてこと、竜にとっては迷惑だろうね。だから、ボクは竜に太陽釜を作るよう提案した」


 景色は変わる。

 この国を丸呑みしてしまえる程の巨大な竜が、命を終えて体を横たえる。その体を包み込む紫の星雲。


「番人の竜、タルタロス。彼が冥府そのものとして眠り、その体の中で太陽釜をいぶす。いぶされた光は星屑となり、タルタロスの血管を通して、この星隅々まで行き渡る。

 でも竜は、星屑を作れなかった。偶然にも、人類がそれを作ることができた。

 だからね、竜と人類は、お互いに光の巡りを守る番人として、崇め合っていたんだよ」


 だが、それは千年前までのこと。

 スピカは知っている。ラドンが彼自身の欲望を満たすため、エウレカを食らったこと。エウレカは世界を恨み、滅ぼそうとしていること。


「エウレカは乙女の一族。千年に一度生まれる、タルタロスの管理者。

 ボクは、その重い責務を課してしまったことを後悔しているんだ。ボクが完全な星であれば、こんな重責を課せることはなかったから」


 エウレカは乙女の血を引く亡霊だ。タルタロスで星屑の結晶を作り出すという役目を放棄し、末裔であるスピカに取り憑き、今正にカオスを引き起こそうとしている。


 エウレカがやろうとしていることは罪である。だが、どうしてそれを咎められようか。


 景色が変わる。再び光の奔流の中、スピカは漂っている。

 目の前に現れたのは、意外な人物であった。

 黒く長い髪に、赤く丸い双眼。かつて、エウレカの記憶の中で一度だけ見た姿。


「お母さん……?」


 エルアは微笑んだ。

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