ロッシュ限界を超えて(2)
「スピカ、大きくなったわね」
エルアはスピカに語り掛ける。在り来りな台詞であったが、スピカの心を揺らすには十分過ぎる。スピカは母に駆け寄り抱きついた。赤い双眼には涙が浮かぶ。
「会いたかった。ずっと、ずっと。
何で死んじゃったの。何で。何で」
エルアは死んだ時の姿そのままで、母というには若い姿のままで、スピカの髪を撫で付ける。
エルアは言葉を迷っているようだった。暫く何も言わずにスピカを抱きしめていたが、ややあってスピカの体を離すと、じっと見つめ合った。
「恨んでないの?」
エルアは問いかける。恐ろしいのだろう。怖々とした、小さな声だ。
スピカは首を振る。
「全く恨んでいないと言えば嘘になるわ。だけど、それ以上に私は、お母さんに訊きたいことがいっぱいあるの」
何故、母は命を絶ったのか。
何故、スピカにもそれを願うのか。
それよりも訊きたいのは、日記にあったあの言葉だった。
「『エウレカを咎めるも許すもあなた次第。選択しなさい』
あれは、どういうことなの」
スピカには、言葉の意味が理解できていなかった。エウレカの行為を咎めて止める選択肢しかないように思えるのに、エウレカの境遇を考えると、頭ごなしに否定などできないのだ。
「エウレカを咎められるわけがないじゃない。でも、カオスを止めないと、私達のこの星は死んでしまうんでしょう?」
エルアは首を振る。
スピカを否定しているのでは無い。スピカの昂りを鎮めるため。
「お母さん?」
スピカは母を呼ぶ。母の目尻に、煌めく涙が浮かんでいたからだ。
「私はね、エウレカを許すことができなかったの」
エルアは語り始める。
溜め込んでいた後悔を吐き出すように。それはまるで
「エウレカは、乙女の血に巣食う亡霊。呪いのようなもの。そう思っていた。
でも、スピカも見たでしょう? エウレカの涙を。ラドンに食われる彼女を。
恋人と引き離されて、ラドンに食われて、そして、みんなから忘れ去られていって。エウレカはきっと、ただ寂しいだけなのよ。不器用な彼女は甘えることができなかった」
エルアはため息を吐き出す。そして、小さな声でこう言った。
「それでも私は、彼女が許せなかったの。私は、なんて
エルアは涙ながらに語る。
許してあげればよかったと。理解してあげればよかったと。
「スピカも見たかしら? 私が死んでしまう前のこと」
スピカは頷く。
クリスティーナの輝術によって見せられた、エウレカの記憶。エルアは、乙女の宮から飛び降りる寸前、エウレカと言葉を交わしていたはず。
「本当はあの時に、エウレカを導いてあげるべきだった。彼女を許し、彼女の寂しさを理解して、タルタロスへ送り届けるべきだった。
でも、私はそれができなかった。今では後悔しているわ。もっと、あの子に寄り添うべきだったのよ」
エルアは、両手で顔を覆う。指の隙間から溢れる涙は、形にならず溶けて消える。
「落ち行くその時、エウレカは私を
悔しくて堪らなくて、私はあの子を
エウレカは私の体からスルっと抜け出てしまった。タルタロスへ共に堕ちてはくれなかったの。
今思えば、あれはエウレカの試し行動だったのかも……それを私は許せなかった……
だから、これは私のせい。あなたに全てを押し付ける母を、許して頂戴……」
スピカは「嗚呼」と呟いた。
今、全てが繋がった。エウレカを許すということは、エウレカをタルタロスへと導くということ。
母は、エルアは、死の間際、それを無意識のうちに拒否してしまった。スピカに日記を遺したのは、その可能性を見越してしまった故のこと。
エルア自身、エウレカを許す覚悟ができていなかった。できないままに命を絶ったのだ。
目の前でさめざめと無く母のことを狡いと思った。娘に死の選択を押し付ける母のことを酷いと思った。
だが、きっと母もまた、自分の不幸を呪ったが故、不幸の元凶を許せなかったのだ。
どうして責められようか。
「スピカ……?」
エルアは驚いて呟いた。
スピカが、エルアを抱き締めていたのだ。
「みんな悪くないわ。みんな不幸だっただけよ。ただそれだけ。
私は、お母さんのことも、エウレカのことも許したい。だから、泣くのはやめて頂戴」
スピカの優しい声が、エルアの心を包む。エルアはスピカを抱きしめ返す。愛おしくてたまらない。そんな風に。
まだ年端もいかない子供なのだ。その背中に、世界の命運を預けるのは残酷ではないか。
そう思った。スピカの言葉を聞くまでは。
今、スピカは、全てを許そうとしている。
「本当に、大きくなったわね」
エルアのしみじみとした言葉。
だが、スピカは首を振った。
「みんなが居てくれたから」
スピカは語る。
「アルフが私を育ててくれた。
友達が私を支えてくれた。
何よりね、アヴィが私を愛してくれたから。だから私は、こうしてここにいるの」
エルアは微笑む。
「大きな宝物ね」
「ええ。抱えきれないくらいね」
二人は笑う。笑い声が煌めいて、辺りに響く。
いつの間にか、麦の塔の最上階に景色は戻っていた。
エウレカが涙に濡れた顔を向けてくる。スピカとエルアの笑い声は、エウレカに届いていたようだ。
スピカは今一度エウレカに近付く。聞こえるかどうかわからないが、もう一度声をかけてみた。
「エウレカ。私はあなたを許したいの。どう伝えたら伝わるの?」
その言葉は、確かにエウレカに伝わった。エウレカの顔が驚きに、そして、困惑に。最後に、吐き出しようのない怒りへと変わる。
「許したいですって? なんて
私はこの星を滅ぼすの。私を助けてくれなかった、私を忘れてしまったこの星を。
許すと言うなら、そこで黙って見ていればいいじゃない」
スピカは首を振る。
エウレカの怒りは、
再び踊り始めたエウレカの足元から、麦穂が次々に現れては消えていく。光が溢れ、辺りに散らばり、そして黒に溶けて消えていく。
自分一人の説得では、エウレカを止めることは叶わない。
「エウレカ。お願い。こんなことやめて頂戴」
そう願うが、聞き届けられることはなく。
スピカの意識は、カオスの黒へと沈んでいく。
この世界を救いたい。
エウレカを傷付け、スピカ自身も傷付けられてきた。
だがそれでも、大切なヒトがいるこの世界を救いたい。
エウレカの心を解かすには、どうすれば良いのだろう……
「優しいあなたのことだから、どちらも救いたいと思っているんでしょう?
大丈夫。あなたは選択権を持っているわ」
エルアの声が聞こえる。
スピカは黒の中で耳を傾ける。
「あなたが選択するためには、彼の手助けが必要よ」
名前を出されたわけではないのに、スピカは誰のことだかすぐに理解した。そうであって欲しいと願った。
「彼はあなたの王子様だものね」
エルアは実に穏やかに語りかける。
スピカは願う。アヴィオールが、無事にここまで辿り着けるようにと。
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