降り注ぐ夜天光(6)

 時計塔の一階、黒に塗り潰された冷たい床に、スピカは転がされた。深い闇夜のような黒髪が、ばらりと解けて床に散らばる。

 抵抗する力はとうに失っている。このまま、自分の魂はここでついえてしまうのだろう。スピカはそれを理解した。


「ようやくここまで辿り着いた」


 アルデバランがスピカを見つめる。

 スピカはかすむ視界の中で父を見つめた。思い出されるのは、ラドンに食われたエウレカの記憶。確か今の自分と同様に、彼女も深紅の瞳に睨まれていたのだったか。

 あの時に感じた絶望感が、まざまざと思い出された。

 指先から体が冷えていく感覚。死への恐怖が頭を埋め尽くす。


 アルデバランが、スピカに手をかざす。二人の体に、光の粒が降り積もる。

 体が痛み始め、スピカは僅かに身を捩った。内蔵が内側から拗られていくような鈍痛。痛みのせいで、くぐもった声が漏れる。

 息がうまくできない。口を開くが、胸に空気が入って来ない。やり方を忘れてしまったかのようだった。

 

 視線を動かす。

 アルファルドが、アンナが、何かを叫んでいる。

 レグルスがアルゲディと言い争い、カペラがスコーピウスを睨んでいる。

 その向こう。離れた場所に、倒れたアヴィオールの姿が見えた。生きているのか、死んでいるのか、見ているだけではわからない。

 触れたい一心で手を伸ばすが、届くはずがない。


「ごめんなさい」


 音にならない程の小さな声で、スピカは呟いた。


『もういいでしょう?』


 頭に声が響く。

 紛れもない。エウレカの声だ。スピカの意識を剥がし、体を奪おうとしている。


 真っ暗な視界の中で、金の髪とすれ違った。

 エウレカは、泣きそうな顔で笑っていた。


 ……

 …………


 静寂が夜風に掻き消される。

 スピカの体がゆらりと立ち上がる。

 まとう空気も、表情も、スピカのものではなかった。エウレカが、体を奪っていた。


「お久しぶりね、皆さん」


 先程までの苦しみなどなかったかのように、乙女は微笑んで佇んでいた。


「エウレカ……」


 誰とはなしに名前が呼ばれる。その声を、誰も否定しなかった。

 エウレカはアルデバランに近付く。跪き、頭を垂れるアルデバランの頬を、細い指で撫でる。そのなまめかしい指使いに、アルデバランは恍惚こうこつとした表情で微笑んでいた。


「エウレカ、私はこれまで、君のために全てを捧げてきた。どうか、君の寂しさの隙間に、私を住まわせて欲しい」


 アルデバランの願いを、エウレカは笑い飛ばす。自分のことをろくに知りもしない癖にと、半ば自嘲気味であった。

 その異様な光景を見て、アルファルドは絶叫するかのように問いかける。


「乙女の一族しか知り得ない存在に、何故そこまで執着する? アルデバラン、お前は一体何者なんだ!」


 その問いに対する答えはない。アルデバランは、アルファルドの存在を無視すると決め込んだようであった。


「ねえ、あなたのお仲間を、ここに呼んで頂戴」


 エウレカは強請ねだる。アルデバランは立ち上がり、時計塔の外を振り返った。

 スコーピウスが、アルゲディが、時計塔の中へと集まる。光のない真っ黒な空間で、エウレカはそれぞれに声をかけた。


「スコーピウス、あなた、何故私に手を貸したの? 何か見返りが欲しいのかしら?」


 エウレカは猫なで声である。スコーピウスはそれに対して、ゆるゆると首を振る。


「私は、君を信奉しんぽうしているわけではない。すまないが、君にはさして興味がないんだ」


 意外な言葉に、エウレカは目を丸くして口元に手を添える。


「あら、意外ね。なら、ただ世界を滅ぼしたいだけ?」


「まあ、そんなところだね」


 スコーピウスはただ笑う。彼の腹の底が見えなくて、エウレカは眉をひそめた。

 だが、自分が復活した今、そのようなことはどうでも良かった。スコーピウスの真意について、考えることをやめた。


「もう、君の中にスピカはいないんだね」


 アルゲディがエウレカに問いかける。エウレカは、アルゲディににっこりと笑いかけた。


「あら、私じゃご不満かしら?」


「……ううん。いいんだ。君の舞を、この目に焼き付けてから死ぬことにするよ」


 アルゲディはそれだけ言うと、エウレカから離れてしまった。


「つれないのね」


 エウレカは揶揄わらう。アルゲディはそれに笑顔で返した。元より自暴自棄だったのだ。諦観ていかんの思いから始めたことなのだ。だから、これでいいと、アルゲディは甘んじて受け入れた。


 エウレカは深呼吸をする。


 千年もの永き間、抱え込んだ寂しさと絶望感。ラドンに食われたあの瞬間、世界を滅ぼすと決めた。

 否、魔女に誘われてのことだったか、それとも魔女から呪いを受けてのことだったか。

 いつから寂しさが怒りになったのか、忘れてしまったようだ。だが、そのようなこと、既にどうでも良いことであった。

 後悔があるとすれば、愛する彼に再び会うことが叶わなかったこと。だが、既に彼の魂は、石屑に成り果てているのだろう。

 だから、世界を恨んで、本来の役目を放棄して、全てを諦めてしまっていた。


 今更、誰が止めてくれようか。


「我が名はエウレカ、乙女の一族に属し者。春待ちの竜より、力を授かりし賢者なり」


 エウレカに光がまとう。光を浴びて、彼女は舞い始める。

 くるり、くるり。光と共に舞う彼女の顔は、涙と笑顔に満ちていた。

 星より光を吸い上げるその輝術は、命を分け与える喜びの術だ。本来ならば。

 エウレカが回る度、黒に塗り潰された大地から麦が生える。それは見る見るうちに膝まで伸び、肩まで伸び、体を覆い隠してしまう。

 麦畑は広がり、アルデバランを、スコーピウスを巻き込んで、時計塔の一階を埋め尽くす。

 金の麦穂は夜風に吹かれ、金色の津波のように黒を覆い隠す。本来では有り得ない程に巨大に肥えたそれは、月へと向かって長く長く伸びていく。

 アルゲディが時計塔から出てくる頃には、外壁が幾多もの麦穂に覆い尽くされていた。


「なんだ、あれは……」


 アルファルドは呟く。

 賢者一人が扱えるはずのない、膨大な光と麦穂の波。それを目の当たりにして、思考が止まってしまった。

 サテュロスが逃げ出し自由の身になったことさえ気づかず、膝立ちで呆然と時計塔を見上げていた。

 麦穂は際限なく伸びていき、カリヨンを、時計の文字盤を、覆い隠していく。揺れるカリヨンの音色は、麦穂が奪ってしまった。

 やがて、時計塔の全てが飲み込まれた時、金色に光る塔がそこに佇んでいた。


「アルフ、逃げろ!」


 アンナの声に、アルファルドは弾かれたように立ち上がった。

 足元が黒に塗り潰されていく。金色に塗り替えられていく。

 時計塔を覆い尽くした麦穂は、今度は大地を覆い隠そうとしている。

 これは不味いと直感した。アルファルドは立てないアンナの腕を取り、肩に担いで引っ張った。


「逃げるぞ!」


 レグルスに声をかける。レグルスはファミラナを抱えて頷く。

 カペラはいち早く逃げ出して、マーブラとキャンディに駆け寄っていた。彼らを運ぼうと手首を掴み、地面を引きずって運んでいる。


 その間にも黒の侵食は進む。

 黒色は石畳を、街路樹を、街並みを全て覆い尽くした。街から明かりが消え、色が消えた。

 建物から人々が顔を出す。不安を恐怖を顔に浮かべ、漆黒の中心にある麦の塔を見つめる。

 無作為に伸びる麦の穂は、無差別に人々を巻き込んで金色に塗り潰していく。


「アヴィは? アヴィは何処だ?」


 麦穂に脚を絡まれながら、アルファルドは辺りを見回した。

 アヴィオールの体が何処にもない。もしや、麦畑に埋もれてしまったのではないか。

 呼びかけようと口を開く。だが、麦穂の波に体を浚われ、カオスの中へと沈んでいく。


 街は、金色の海の中へ沈んで行った。

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