降り注ぐ夜天光(2)

 日が落ち始めてからは、あっという間だった。スピカ達が双魚うおの宮に着いた時には、空は濃紺に染まっていた。

 今宵は満月らしい。まだ月は登りきっていないが、それでも辺りを照らす黄金の月光は、隠れることを困難にしていた。

 兵士の目を盗みながら、やっとの思いで辿り着いたスピカとアヴィオールを、双魚うおの大賢人、ロディとアモルが出迎えた。


「あ、えっと、来ちゃったの?」


 ロディはやや慌てた様子であった。呼び付けたのは彼女の方だというのに。

 双魚うおの宮は、牡牛の宮と隣り合わせであるために、敵が何処から見ているかわからない。スピカやアヴィオールが人目に晒されることを危惧きぐして、ロディは二人を宮の中へと招き入れた。

 屋敷の中は、まるで水の中にいるかのように錯覚するほど美しかった。

 遠くから聞こえてくる泡の音。それに連動しているのか、シャボン玉がどこからとも無く現れては飛んでいく。月の光がステンドグラスから差し込むと、足元に漣模様さざなみもようの光が落ちた。


「スピカちゃん、久しぶりね。私のこと覚えてる?」


 ロディはスピカの顔を覗き込む。

 彼女の顔は、嫌な記憶とセットで覚えてしまっていた。スピカの顔が少しだけ引きる。


「継承の儀のこと思い出してんだろ?」


 ロディの後ろで、アモルがため息混じりに問い掛けた。スピカはぎこちなく頷く。

 アモルは眉を寄せて後頭部を掻き毟る。


「で、そっちの奴が、あの時の?」


「タルタロスに堕とされてたっていう、あの?」


 ロディとアモルの顔が、アヴィオールへと向いた。アヴィオールは会釈する。


「アヴィオールです」


「あらあらあら、可愛いじゃない」


 ロディはアヴィオールに笑ってみせる。


さらわれた女の子を助けに来るなんて、まるで王子様ね」


 茶化したつもりなのだろう。ロディはスピカにウィンクしてみせるが、スピカはそれに対して頷いた。


「ええ、そうなんです」


 照れもせず、誤魔化ごまかしもせず、ただ嬉しそうにスピカは肯定する。その反応を意外に思ったロディは、アモルと顔を見合わせてクスリと笑った。


「あの、そんなことより」


 アヴィオールは照れを隠すため、声を張り上げながら話を切り出す。


「獅子の宮と水瓶の宮は見張られてると聞きました。他に脱出経路はないですか?」


 話が本題に入ったことで、辺りに緊張が流れた。

 スピカを宮に呼び付けたのはロディである。アモルはロディの肩を小突き、発言を促した。

 だが、ロディの表情が陰る。


「あの、私があなた達を呼んだのは、他でもない、ここから逃がすためなの」


 勿体ぶった話し方をするロディ。言葉の一つ一つを迷っているようで、目は泳いでいる。


「でね、私達ができることと言えば、小舟を出すか、橋を下ろすかなんだけどね」


「さっさと案内しろよ姉ちゃん」


「そうなんだけどね。ただ、ね。先に謝らなければならないことが……」


「謝らなければならないこと?」


 スピカとアヴィオールは揃って首を傾げる。彼女が何を謝るべきか等、想像がつかない。


「あの、私、知らずに助けちゃったの。そのせいで今すごく面倒なことに……」


「面倒とは失礼だね、ロディ」


 突如聞こえた男性の声に、ロディの肩が跳ねる。

 スピカは寒気を感じた。猛獣に睨まれたかのような殺気。それは、廊下の奥から感じる。

 暗がりから現れたのは、獅子のたてがみのような髭を蓄えた大男。獅子の大賢人、レオナルドであった。

 身に纏う装束は薄汚れ、髭はだらしなく伸び絡まっている。投獄されている間、身嗜みを整えることができなかったのだろうが、そのいずれも彼の威厳を損ねるには不十分であった。

 彼は、大剣を肩に担ぎ、ホールへと、スピカへと近付いてくる。


「アヴィ!」


 スピカはアヴィオールの手を引いた。慌てて逃げ出すスピカにつられ、アヴィオールも走り出す。


「何だって逃げるんだよ」


「私を殺しに来たんだわ」


 スピカはすっかりパニックで、何処に逃げるべきかわかっていない。とにかく遠くに離れたい一心で、玄関ホールの階段を登った。


「おいおい、そんな物騒なのしまえよ、レオおじさん」


 アモルは顔を引きらせながらレオナルドに言う。だがレオナルドは至って真面目な表情で、アモルを見るとこう言った。


「スピカは死ななければならん。でなければ、エルアが死んだ意味がない」


「いや意味わかんね。

 つか、ロディ、さっきの変な態度はこれが原因か」


 アモルはロディを振り返り、責めるように彼女を睨み付けた。ロディは生唾を飲み込み、小さく頷く。


「だって、私、知らなかったもの」


 レオナルドはアモルの横を通り過ぎようとしていた。

 マントが靡く。アモルはそれを片手で掴んで引き留めた。


「なんだ」


 レオナルドは立ち止まる。アモルを横目で睨めつける。獅子の眼光に貫かれ、アモルは身がすくんだ。


「あんた、息子と同じ歳の子を殺すだなんて、良心が痛まないのか?」


 精一杯の問いかけは、震え声になってしまっていた。

 レオナルドはそれを鼻で笑う。


「以前も、同じことを問いかけてきた奴がいたよ。その時にはできなかった。

 だが、今度は間違えない。乙女が絶えれば全てが終わる」


 レオナルドはマントを力任せに引っ張る。だが、アモルは離さない。

 反対側も、ロディに掴まれる。ロディはレオナルドを見上げ、首を振っていた。


「そんなことをしては、レグルスに顔向けできないでしょう」


 ロディに諭され、レオナルドは一瞬顔を歪めた。だが、すぐに表情を消す。

 太い片腕を横に振り抜き、アモルの横っ面を殴りつける。細身であるアモルはそれだけで体勢を崩し、尻餅をついた。


「アモル!」


 叫ぶロディからマントを奪い返す。女性の力では彼の剛腕に勝てず、その場に倒れて床に腹を打ち付けた。


「安心しろ。エルアとの約束を果たした後、私も死ぬつもりなのだから」


 レオナルドの言葉に、ロディは目を見開く。わなわなと唇を震わせ、小さく声を振り絞った。


「奥様はどうなるのですか」


「……我が妻、アメリアのことか……」


 レオナルドは目を閉じる。首を振って小さく笑う。

 それだけでロディは察し、呆然としてしまった。


「いや、困るって」


 階段の上から一部始終を見ていたアヴィオールはそう呟いた。

 何を話しているかまでは聞こえない。だが、レオナルドがスピカを殺したがっていることはよく理解ができた。


「スピカ、二階じゃ逃げ場がない。何処かから一階に降りないと」


「わかってるわ。わかってるけど」


 慌てているために冷静な判断ができない。そんなスピカに向かって、アモルが声を張り上げた。


「跳ね上げ橋に行け! ブラキウムに待機させてる! さっさと行け!」


 スピカは弾かれたように走り出す。アヴィオールの手を引いて、二階の廊下を走り出した。

 アヴィオールはスピカと並んで走る。

 跳ね上げ橋に行けと言われても、屋敷を抜けなければならないのではないのか。そう考えたが。


「もしかして」


「動力室。きっとこの屋敷の中にあるんじゃないかと思うの」


 橋を上げ下ろしするための駆動部、それが設置されている動力室。それが双魚の宮にあるのではないかと睨んでいるのだ。

 そして、それがあるとすれば、橋により近い場所となる。スピカは窓から外を見た。

 双魚うおの宮は、跳ね上げ橋と小舟を管理している。となれば、橋の近くに位置しているはず。


「あれね」


 スピカは橋を指さした。

 せり立つ石造りの壁。今は上がったままであるが、外部に出る際にはそれが下り、湖に横たわる橋になる。

 窓から見える橋を目印に廊下をひた走ると、一枚の扉に行き着いた。内開きのそれを開くと、そこは屋根のない連結通路だった。

 生ぬるい夜風が辺りを吹き抜けていく。何かと鉢合わせしてしまいそうで恐ろしさを感じた。

 だが、この先に行かなければ逃げることもままならない。


「スピカ、走って!」


 背後からアヴィオールに声をかけられた。スピカは振り返る。

 後ろを向くアヴィオールの向こう、レオナルドが歩いてくる姿が見えた。無表情でありながら殺気を漂わせている彼に、スピカは足が震えて仕方ない。


「早く!」


 弾かれたように走り出す。

 背後で光が弾けた。アヴィオールが白鳩を飛ばしたのだろう。その足掻あがきがどれだけ時間を稼げるかわからないが、少しでも遠くに逃げなければ。


 レオナルドは、自身に迫る白鳩を大剣で叩き落とす。だが、防御の白鳩が簡単に落とされるはずがない。白鳩は大剣を弾き返し、一瞬光が煌めいた。

 続いてもう一羽。白鳩が新しく生まれ、レオナルドの周りを旋回する。それが羽虫のように鬱陶うっとうしく、もう一度大剣を振るう。

 上から下へ、体重を乗せて振り下ろされる大剣の威力は凄まじく、白鳩を的確に捉え床にねじ伏せる。光が煌めき霧散すると、レオナルドはアヴィオールを睨み付けた。

 アヴィオールは、閉められた扉の前から動かない。もう一羽の白鳩を召喚し、撃ち出すタイミングを狙っている。

 戦えないというのに、防ぐしか能がないというのに。その懸命さが眩しくて、それでいてあやうく見えた。


「アヴィオール、その選択は後悔しか生まんぞ」


 諭すべく言葉を投げ掛ける。

 だが、アヴィオールは首を振る。


「なら何でレオナルドさんは、そんなに苦しんでいるんですか!」


 その言葉が、レオナルドに突き刺さった。

 レオナルドは床を蹴る。爆発的な脚力で、アヴィオールとの距離を一気に縮める。体を捻り、大剣を真横に構えた。

 そのまま横に振り抜くと判断し、アヴィオールは白鳩を飛ばす。正に「撃ち出す」といった表現が正しい程に鋭い。隼のような飛行速度でレオナルドに向かう白鳩は、彼の腕を狙っていた。


「甘い!」


 レオナルドは大剣を振り抜くことなく、その身を翻して、マントを白鳩にぶつけた。

 光がぶつかり合う。アヴィオールは目を見開いた。

 次の瞬間、白鳩は直線的に跳ね返り、アヴィオールの腹を撃ち抜いた。隼の飛行速度のまま、アヴィオールの体を吹き飛ばす。扉のガラス窓を突き破り、連結通路を転がった。

 その騒音に、スピカは驚き振り返る。彼女の目に飛び込んできたのは、通路の真ん中で倒れたアヴィオールの姿だった。


「アヴィ!」


 スピカは慌てて引き返す。アヴィオールの傍に跪くと、彼の顔を覗き込んだ。

 外傷は少ない。だが、打ち付けられた体は酷く痛むようで、激しく咳き込んでいた。


「スピカ、逃げて」


 スピカは顔を上げた。

 レオナルドが、扉を開けて連結通路に出てきた。大剣を肩に担ぎ、目はスピカを見据えている。だがその目はスピカを睨むわけでもなく、ただ憐れんでいるようであった。

 スピカは無性に腹が立った。


「何で私がこんな目に遭わなければいけないの」


 スピカはレオナルドに問いかける。


「大人はみんな勝手だわ。

 私が乙女の末裔だと分かれば、みんな好き勝手にはやし立てて。今度は私に死ねって言うの? ふざけないで頂戴。

 私の命は私のものなの。その扱いくらい、自分で決めるわ」


 そう捲し立てたところで、力を持たないスピカができることは少ない。

 スピカはアヴィオールの肩を揺さぶる。アヴィオールは痛む体に鞭打って起き上がる。

 レオナルドが迫る。追いつかれれば、二人とも大剣の餌食だ。ぞわりと総毛立った。


「レオナルド、やめなよ」


 声が聞こえた。スピカは後ろを振り返る。

 視界の端を、輝く何かが通り過ぎた。それはレオナルドへと向かって真っ直ぐ走って行く。

 レオナルドはマントを翻した。光り輝くチャリオットがマントに触れた瞬間、轟音を立てながら弾かれた。

 アヴィオールは慌てて白鳩を呼び出した。直線的に跳ね返ってくるチャリオットを、白鳩で防ぐ。白鳩がチャリオットに触れたところから、両者霧散して消えていく。


「な、何……?」


 目の前で起きたことに驚き、スピカは呆然としていた。


「やっぱり跳ね返すか。ごめんね、二人とも大丈夫?」


 スピカが見つめる先にいたのは、天秤の大賢人、ブラキウム・アストライヤー。彼は、カペラとアルファルドを連れていた。

 先のチャリオットは、カペラの輝術によるものらしい。カペラは片手に光の鞭を握り締めていた。


「スピカ!」


 アルファルドが走り出す。続いてカペラも。二人はスピカ達の傍に駆け寄って、再会を喜んだ。


「スピカ、すまなかった。アヴィオールも、大丈夫か?」


「アヴィ、大丈夫ですか? さっきぶっ飛ばされてたけど」


 呑気にも聞こえるカペラの問いかけに、アヴィオールは苦笑いを浮かべる。


「駆け付けてくれて、ありがとう」


 スピカが言うと、アルファルドは笑ってスピカの頭を撫でた。


「レオ、さっきのはどういうことだ」


 そして、アルファルドはレオナルドに問い掛ける。レオナルドはアルファルドの顔をじっと見据えていた。


「エルアの願いだ。スピカを殺せと言われていた」


「そんなわけあるか!」


 アルファルドが吠える。信じたくないのだろう。母が娘の死を願ってしまったということを。

 だが、それは紛れもない事実であり、レオナルドの言葉に偽りはない。


「随分昔に、エルアから言付かっていたんだ。

 スピカが成長し、再び宮殿に戻ることがあれば、その時には殺してくれと。エルアが死ぬ直前の言葉だ。嘘だとは思えん」


「乙女が絶えれば冬が来るっていう、あの言い伝えかな?」


 ブラキウムがレオナルドに問い掛ける。カツカツと足音を立てながら、ブラキウムはレオナルドに近づいた。

 スピカとアヴィオールを守るように、立ち塞がる。


「私の輝術を知っているだろう?」


 唐突な質問。レオナルドは何も返さない。


「私の輝術は、罪の重さを量る術。

 気になってね。レオナルド、君の罪を量らせてもらった。そうしたら、君の罪は空気よりも、水よりも重いんだよ」


 レオナルドは口の端を歪めて笑う。


「君の基準は、独特すぎてよくわからないな」


「よく言われる」


 ブラキウムも笑う。


「だけど、生きるために必要な空気や水、それを奪うより重くて重くて仕方ない罪を、君は犯そうとしているんだ。

 ねえ、君、乙女が絶えればいいだけの問題だと勘違いしているんじゃないかい?」


 スピカはハッとして顔を上げる。アヴィオールもだ。

 ブラキウムは確証を抱いているようでは無い。だが、喉に引っかかった魚の骨が抜けないかのような、神妙な表情をしていた。


「乙女が絶えればいいだけなら、エルアはスピカと心中をしたはずだ。だが実際は、スピカは海蛇の賢者様に預けられた。私は、そこをもっと突き詰めて考えるべきだと思うんだけどね」


 レオナルドは黙りこくってしまった。深くため息を吐き出して、大剣を背中の鞘にしまう。


「わかってくれて嬉しいよ」


 ブラキウムはにっこりと笑う。そして長い髪を靡かせながら、スピカ達を振り返った。


「何故、その考えに行き着いたんだ?」


 レオナルドがブラキウムに問い掛ける。

 ブラキウムは、ちらりとレオナルドに視線を向ける。レオナルドの目は落ちくぼみ、生気がすっかり抜けているようだった。

 エルアの想いを汲み取れなかった。その後悔の表れなのだろう。背は丸まり、縮こまっている。

 そんなレオナルドに、ブラキウムは笑って言った。


「冷静になって視点を変えてみれば、見える景色が変わってくる。それだけさ」


 ブラキウムはスピカ達に顔を向けた。


「スピカ、アヴィオール、ここまでよく頑張ったね。

 橋はじきに下りる。外に出よう」


 ブラキウム達は、あらかじめ動力室に立ち寄ってくれていたらしい。確かに跳ね上げ橋は、轟音を立てながら動き出していた。

 出口はもう目の前だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る