膨らむ不安は星雲のごとく(5)
その晩、スピカは寝付けずにいた。
リネンは清潔で、マットレスはふんわりと体を包んでくれる。ベッドはとても上質なものである。眠れない原因はそれではない。
スピカはベッドから下りて窓に近付く。星座柄のカーテンを引いて、外の景色をぼんやりと眺めた。
空には煌めく星々が、流れる雲と共に浮かんでいる。普段見ているはずの夜空さえ、この日は怖く感じ、視線を湖へと落とした。
乙女の宮、その庭の向こうに湖が見える。月を映した湖面は揺らめいており、キラキラと光を跳ね返している。
湖の畔に人影が見えた。遠くからでは誰なのかさっぱりわからない。
スピカは退屈しのぎに散歩しようと思い立つ。ネグリジェの上からショールを羽織り、髪を
玄関に置かれたランタンに、星屑の結晶をいくつか入れ、おそるおそる宮の外へと出た。向かう先は庭の向こう。湖の畔である。
湖の畔で、誰が何をしているのか確かめたかったという好奇心もあった。とはいえ、ここは宮殿。誰がいたとしても、おそらくは大賢人か使用人だろうが。
花壇を横切り、果物が実る果樹園を抜け、遊歩道へと出る。夜風は羽織ったショールをはためかせ、黒髪をなびかせた。
湖にいたのは、白髪のサテュロス。
「こんばんは」
スピカはアルゲディの後ろ姿に声をかける。アルゲディは肩を跳ねさせてスピカを振り返った。
丸く見開いたアルゲディの目は、サテュロスの特徴である、横に長い楕円形の瞳孔がくっきりと見えた。
スピカはアルゲディに近付いて、釣り糸の先をじっと見つめる。糸は、水面の月へと伸びている。
「あの、今朝はありがとうございました」
スピカはぽつりと礼を言う。
今朝、アルデバランと会う前。スピカがパニックを起こした時に、輝術を使って
アルゲディはその礼を意外だと思ったらしい。
「輝術、だめなんでしょ? 怒ってないの?」
「確かに目眩を起こしましたけど、でも、アルゲディさんの輝術で落ち着けたのは確かです」
「ふうん」
いつの間にか、釣り糸が波に押され、湖畔に近付いていた。アルゲディは糸を巻き取り、再度竿を振って遠くに針を落とした。水面の月はそれを受け、波に掻き消され、暫くすると再び形を取り戻す。
「何だか、月を釣ってるみたいですね」
スピカは呟く。
「詩的なことを言うんだね」
「そうですか?」
「うん。君のお母さんなら言わなさそう」
アルゲディはぽつりとこぼす。
その言葉にスピカは食いついた。
「母を知ってるんですか?」
アルゲディはたじろぐ。何気なく呟いた言葉に食いつくとは思っていなかった。
とはいえ、アルゲディが知っていることは少ないようだ。
「俺が子供の頃に、何度か会っただけ」
しかし、母のことを何も知らないスピカは、その話を聞きたがった。
「どんな人でしたか?」
「……あまり語れないよ」
アルゲディは顔を歪める。語れないと言うよりは、語りたくないようである。
「でも、詩的なことは言わなさそう、なんでしょう? 少しでいいので教えてください」
スピカが言うと、アルゲディはため息混じりに語り始めた。
「……優しくてね、厳しかった。年上を敬い、年下の面倒をよく見る、頼りになるお姉さん。そして」
彼の表情が変わる。
「彼女の舞は、とても綺麗だった」
うっとりと目を細め、水面に映った星々を眺める。そして、その表情そのままにスピカへと顔を向ける。
「君は、乙女を継ぐんだよね」
スピカは悩んでいた。
継ぐべきなのだろう。だが、今朝知ったばかりの現実を、素直に受け止めることなどできない。そもそも、自分の体質上、継承の儀に臨めるのかわからない。
覚悟を決めるための時間が欲しい。
アルゲディは、スピカの胸中を見透かしたかのように、ふっと笑った。
「ああ、今すぐ決めろとは言わないよ。ただね、俺は、君の舞を見てみたいな」
アルゲディはスピカの髪に手を伸ばす。
スピカは彼の馴れ馴れしさに戸惑い、一歩離れた。
「あ、ごめんね」
「いえ……」
二人とも口を閉ざしてしまう。風に吹かれる木の葉のざわめきが、やけにうるさく感じた。
アルゲディは竿に目を戻す。
「大賢人になったら、何をするのか。知ってる?」
アルゲディに問われ、スピカは「いいえ」と答えた。それを聞くと、アルゲディは説明を始める。
「そうだよね。宮殿内部って何故か一般に明かされないからね。
大賢人がそれぞれ役職を持っているのは知ってるでしょ?」
「あ、はい。
獅子が外交官、蟹が国防長官、蛇使いが医療法人の役員ですよね」
「よく知ってるね。
で、水瓶は宮殿のハウスキーパー。その他の賢者達で、法王を回り持ち、って感じ」
再び湖畔に近付いた糸を、アルゲディは巻きとる。針に餌はついていない。どうやら魚に食われてしまったようである。アルゲディはそれに対して感情を抱くことなく、淡々と餌をつけ、竿を振る。
「ああでも、乙女だけは違うよ。大賢人の中で唯一、役割がない。
でも乙女は、年に二度、大賢神ユピテウスに舞を奉納しなきゃならない」
「舞、ですか……?」
スピカは首を傾げる。そういえば、先程も舞の話をしていなかったか。
アルゲディも首を傾げる。
「あれ? 聞いてないんだ?
乙女の輝術は舞だよ。タンヌーラ。知ってる?」
アルゲディの顔がスピカに向く。スピカは黙って首を振る。
「隣国では男が踊るらしいけど、うちは逆。ていうより、乙女しか踊っちゃいけない」
「それは、どんな踊りなんですか?」
スピカは問う。隣国では男性が踊るという話から、どんなに激しい舞なのだろうかと考える。しかし、アルゲディの答えは意外なものだった。
「ただ回るだけ」
「え?」
拍子抜けしてしまった。跳んだり跳ねたりするようなものを想像していたからだ。
「スカートが綺麗な円形になるように。それを維持するようにひたすら回るんだ」
スピカは理解した。スカートの広がりを回転のみで維持するには、スピードが必要なのだ。延々と周り続けるとなれば、体力の消耗が激しいだろう。
だから、隣国では男性が躍る。
一方この国では、乙女しか許されない。輝術の媒介であるためだろう。だが……
「母もそれを?」
「そうだよ」
「母も、私と同じ体質だったんでしょう?」
乙女の輝術が舞だと言うならば、舞う度体調を崩してしまうのではないだろうか。スピカはそれを不安に思う。
「……怖い?」
スピカは黙って頷いた。
水が激しく音を立てた。スピカの意識はそちらに向かう。
水面を見れば、浮きが深く沈んでいた。アルゲディはのたのた立ち上がり、竿を掴むとリールを巻いた。
激しい水飛沫が上がり、やがて湖面は静かになる。糸を巻くのがどうやら遅かったようだ。針の餌はなくなっているが、魚は釣れていない。
「逃げられたな、これは」
アルゲディは呟く。
「釣れたら飼ってやろうと思ってたのに」
やや苛立っているようである。唇を尖らせた顔は子供のようだ。
「釣り、好きなんですね」
スピカは言う。だが、帰ってきた言葉は意外なものだった。
「嫌いだよ。ただ待つだけの釣りなんか」
「え?」
てっきり楽しんでいるのだと思っていた。スピカは目を瞬かせる。
アルゲディは釣りに興味を無くしたようである。竿を地面に放り投げ、背もたれに体を預けた。
「一つ聞いていい?」
アルゲディに問われ、スピカは身を固くした。
「あの子、彼氏?」
スピカは途端に顔を赤らめる。誰のことを言っているのか、すぐに理解した。
「い、今はまだ、友達……」
そう呟いて、ショールで顔を隠す。恥ずかしくて仕方なかった。
アルゲディはそんなスピカの様子を、笑うことなく見つめている。「やっぱりね」と呟く声は、蚊が鳴くよりも小さくて、スピカには聞こえない。
ややあって、スピカはショールから顔を出した。赤らんだ顔はそのままだが、取り乱す様子は無い。
「そろそろ帰りなよ。風邪引くよ」
アルゲディに言われ、スピカは黙って頷く。踵を返すと、乙女の宮へ歩き出す。
「おやすみ、お姫様」
アルゲディが呟く。
その声がよく聞き取れず、スピカは振り返って首を傾げた。だが、アルゲディは何も言わない。
「おやすみなさい」
スピカは微笑んで言った。
アルゲディはひらりと手を振って、それを挨拶代わりにした。
スピカは再び宮へと向かい歩き出す。
アルゲディは深く深くため息をついた。
「やあ、待たせたね」
スピカと入れ替わるように、一人の男性が現れる。
アルゲディは、その人の……スコーピウスの顔を見上げた。
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