散り散りの星野光(4)
スピカは目を開けた。
既に夕刻で、窓から差し込む陽光の眩しさに目を細める。ふらふらと窓に近付くと、桟に触れて外を見た。
体の重だるさと
どうやら牡牛の宮に連れてこられたらしい。屋敷の正面には花々が咲き乱れ、甘い香りを漂わせている。
その香りが堪らなく不快で、再びえずく。窓を閉め、ふらふらとした足取りでベッドへと戻っていく。
意識を保つことばかりに必死で、自分が何をしに宮殿に来たのか思い出せない。否、
『アルゲディ、あの時、お前に言っておいたはずだ。余計なことはするなと』
部屋の外から、アルデバランの怒号が聞こえる。スピカは上体を起こし、聞き耳を立てた。
『まあまあ、アルデバラン君。気にするようなことじゃない』
『何処がだ、スコーピウス。だから私は、こいつを引き入れることに反対だったんだ。余計なことをしやがって』
『娘を心配すると思ったのに……本当に君、冷たいよね』
どうやら自分のことについて話しているらしいと、スピカは察した。ワインを飲まされたことについて言及しているのだろうか。
『あれはエウレカの器だ。お前のおもちゃじゃない』
『君こそ何なんだ? そもそもエウレカって、乙女の一族しか存在を知りようがないんだろう? 何で牡牛の君が知ってるんだい?』
『喧嘩なんぞみっともない。一旦落ち着きなさい』
次第に体中が痛み始め、スピカは横になる。腹部の痛みが酷く、シーツに包まると身を縮こませた。
ややあって、部屋の扉が押し開けられた。入ってきたのはアルデバランだ。
「今夜にでもエウレカを呼び出す。いいな、スコーピウス」
「気が早くないか。そこまで急がずとも、全ての準備が整ってからではいけないのか?」
「リュカは帰って来ない。お前らの近衛兵も仕事をしない。更にはレオナルドの邪魔が入るではないか。
もう沢山だ。誰がどう言おうと今夜だ」
アルデバランはベッドに近付くと、シーツを掴んで無理矢理引き剥がした。スピカは驚いて小さく声を上げる。
「辛いか」
ぽつりと零れたアルデバランの問いかけに、スピカは強がって否定する。
「辛くないです」
「辛いのだろう」
「だったら何よ」
スピカは体を起こし、アルデバランを睨み上げた。瞳が潤む。視界が揺れる。体調の悪さも
情けない。自分の最期なんて、こんなものか。
半ばやけになっていた。
「辛いわよ!
三年前からこんな体質で。
治し方を探しに来たら、わけのわからないゴタゴタに巻き込まれて。
挙げ句、私が死ぬか世界が死ぬかの二択を迫られて」
でも、と。言葉を続ける。
「でもね、エウレカはもっと辛かったはずなの。今ならわかるわ。
恋人と離れざるを得なくて、竜に嫁いだその瞬間に命を落として、それからずっとあの子は独りぼっち。
きっと寂しかった。誰かに強い感情を向けて欲しかったのよ。怒りでも、憎しみでも。
だから、彼女にこれ以上業を背負わせちゃいけないのよ。独りぼっちにさせちゃいけないの。
だから……私は……」
だから、エウレカの心を守るために、彼女に体を渡してはならないと。スピカはそう信じていた。
「はは……あははは……あははははは」
アルデバランは、娘を見下ろし、それを笑った。静かに湧き上がる笑い声を押し殺すべく、片手で目元を覆い隠す。
「笑わせるな。エウレカはそんなこと望んじゃいない」
アルデバランは、スピカの前髪を掴み、赤眼を覗き込む。赤と赤、竜王の血を
どちらも怯むことなく、互いの瞳を見つめる。互いの意見は、親子と言えど
やがてアルデバランはスピカから手を離し突き飛ばした。華奢な体はシーツに埋もれる。
「そこのお前達、準備しろ」
「はいっ!」
アルデバランが、扉の外へ向かって怒号を飛ばす。廊下で待機していたメイドが三人、縮こまった肩を震わせて返事をした。
アルデバランは廊下へと出ていく。スピカは体を起こし、彼の後ろ姿をじっと見つめる。
「今夜、エウレカの魂を再び呼び覚ます。場所は伝えただろう。馬車の準備をしろ」
「準備、ですか……?」
「さっさとしろ!」
メイドの問いかけを口答えと捉えたか。アルデバランは怒りの形相でメイドを叱り飛ばした。メイドは三人とも怯えた表情で、何の準備が必要かも知らされないまま、散り散りに解散してしまった。
「全く、役立たずが……」
アルデバランは大股で廊下を進んでいく。その後ろ姿に向かって、スコーピウスは笑った。
「駄目じゃないか。人を使うなら、きちんと指示を出さないと」
そう言う声は、何処か楽しげである。スコーピウスは肩を震わせてくつくつ笑いながら、部屋を後にする。
二人が去っていくのを、アルゲディは呆れ顔で見ていた。
「あいつら、スピカを何だと思ってるんだろ。ねえ、大丈夫?」
アルゲディはスピカに顔を向け、ベッドへと近付く。スピカは体を硬直させて、口をぎゅっと結んだ。
先日の仕打ちを忘れてはいない。そう言うかのように。
「あー、昨日はごめんね?」
彼の態度はあっけらかんとしていて、「一応謝っておいた方がいいだろう」とでも考えているかのようだ。
「ていうか、覚えてるんだね。ごめんね」
「気持ち悪い……吐きそう」
「あー、ごめんね」
アルゲディが近付いてくる。スピカはベッドの端に逃げようとして落下し、尻餅をつく。
「いい加減にして頂戴。あなたが私に執着する理由は何なの」
スピカは問う。アルゲディは首を振る。
「さあ、俺にもわからない。
君が何か、魔術か輝術か使ってるんじゃないの?」
「できるわけないじゃない」
「まあ、それもそうか」
アルゲディの手がスピカに伸びる。スピカはそれを片手で叩くと、アルゲディの
「いって……」
一瞬怯んだその隙に、スピカは立ち上がり様にアルゲディを両手で突き飛ばす。
スピカは目眩を抑えようと額を片手で押さえる。くらくらと歪む視界の中、扉まで駆けていき、ドアノブにしがみついた。
幸い鍵はかけられていない。引けば簡単に扉が開くはず。
「やってくれるね」
背後から大きな影が覆い被さる。突き飛ばしただけでは足止めになりはしないのだ。
アルゲディが扉に片手を突いた。
「お転婆な君も好きだけど、素直になってくれないと困るなあ」
スピカは考える。
踵で足を踏み付けてやれば、少しは怯むかもしれない。だが、足元が
アルゲディを気絶させるか、もしくは追って来れない程の痛い目に遭わせるか。
その時、突然辺りに轟音が鳴り響いた。アルゲディは振り返り、窓の外へと目を向ける。
音源はおそらく双子の宮だろう。そこから白煙と煌めく光が立ち上っている。爆発ではない。火の手は上がっていない。
「輝術?」
アルゲディはすっかりそれに見とれている。スピカはアルゲディの体の下から抜け出すと、椅子を両手で持ち上げた。
「やああ!」
気合いを声に出しながら、ウォルナットの椅子を渾身の力で振り下ろす。
アルゲディは声に驚き、スピカを見た。瞬間、彼の頬に、座面の角がぶつけられた。あまりの衝撃に、アルゲディはその場に倒れてしまった。
スピカは肩で息をする。椅子は差程重くなかった。極度の興奮から、息を荒げているのだ。
ダメ押しとばかりに椅子を投げつける。アルゲディは投げ付けられたそれに怯み、痛みに呻く。
スピカは扉を開け、部屋の外へと飛び出した。
廊下では、ワーウルフや使用人が歩き回っている。スピカは
子供の隠れん坊のような隠れ方をしたところで、見付かるのは時間の問題だ。使用人達の目を掻い潜り、牡牛の宮を抜け出さねば。
「おい、お前、乙女の……」
声をかけられ振り返る。すぐそこに、
「部屋から出るなって言われてんじゃないのか」
スピカは青ざめた。逃げるため慌てて立ち上がる。目眩が襲いかかるが、構っていられない。
眩む視界の中、走り出そうとして足がもつれ、その場に転倒した。
「
ワーウルフが近付く。スピカは再び立ち上がろうと膝を立てる。
「スピカ様、大丈夫ですか?」
そこに、一人のメイドが駆け寄ってきた。オレンジの髪をなびかせて、スピカの傍に
「狼さん、あとは僕に任せて、持ち場にお戻りください」
メイドはワーウルフを振り返り、にっこりと笑いかける。ワーウルフはその態度が気に入らず舌打ちをした。
「生意気な……」
「ささ、行きましょう」
メイドはスピカを立たせ、廊下を歩く。スピカが閉じ込められていた部屋から離れ、ホールへと向かった。
ワーウルフはまじまじとメイドを見つめる。狼の一族である彼は、牡牛の宮のことはよく知っている。
「あんなメイド、いたか?」
その時、扉が激しく音を立てて開かれた。
「乙女を捕まえろ!」
血が滴る額を押さえ、ワーウルフに怒鳴る。ワーウルフはアルゲディを振り返り、肩をすくめた。
「心配せずとも、メイドが傍にいる」
「そのメイドは偽物だ。よく見ろ!」
背後で聞こえる怒鳴り声に、メイドは舌打ちをした。
「スピカ、走れる?」
スピカは、メイドの正体がわかっていた。彼を信頼し、黙って頷く。
「おい、お前何もんだ?」
ワーウルフが、腰に差していたサーベルを抜く。ギラリと刃を光らせて、二人の子供に背後から迫る。そして、振り上げた。
メイドは振り向き様に人差し指を伸ばす。くるりと小さく円を描き、そこから白鳩が飛び出した。
白鳩はサーベルの刃にぶつかり、鋭い音を立てた。サーベルは押し負け、ワーウルフは後ろによろめく。
メイドはスピカの手を強く引き、走り出した。
視界がぐらつく中、スピカは頭を振って意識を保つ。引っ張られるままに、屋敷の中を走る。
「アヴィ! 何でメイドの格好なんて!」
「話は後! 逃げるよ!」
スピカが閉じ込められていたのは、一階の寝室。玄関ホールから遠い部屋だ。廊下の至るところにはワーウルフや使用人が配備されており、その誰もがアルデバランからの命令を全うしようとしている。
すなわち、乙女の大賢人であるスピカを捕らえようと、立ち塞がっているのだ。
「あまり大人を舐めるなよ?」
使用人の人間が、レイピアを片手に立ち塞がる。アヴィオールは考えることもせず、白鳩を前方に放った。
使用人はそれをレイピアで突き刺し払う。しかし白鳩は、突き刺さったまま離れない。
「何だと?」
「子供だからって舐めるな!」
アヴィオールは使用人を渾身の力で蹴りつけた。
武器は持っていても、最低限の戦闘訓練しか受けていないのだろう。輝術込みの戦闘は想定外のようだ。
細身の使用人はよろめき、レイピアを落として尻餅をついた。
「逃がすな! 取り抑えろ!」
足元で使用人が叫ぶ。ワーウルフが二人、挟み撃ちするように現れた。
「片方はどうにかする。スピカ、一人で行ける?」
アヴィオールがスピカに耳打ちする。スピカは「嫌だ」と言いたいのを、口を閉じて堪えた。助けに来てくれたアヴィオールの足を引っ張るわけにはいかない。
「合図したら走って。いいね」
アヴィオールは白鳩を呼び出す。スピカの視界がくらりと回る。
耐えろ。耐えろ。そう心の中で呟いた。
「待たせたな!」
突然、前方から声が聞こえた。
次の瞬間、スピカ達の前方に構えていたワーウルフが、何者かのメイスに殴られて、壁に叩きつけられた。
スピカは目を凝らす。回る視界の中見えたのは、グリードとサビクの姿であった。
「遅くなった! すまん!」
「いやはや、グリードはいつも無茶苦茶だよ」
サビクの小言をグリードは笑って聞き流す。
サビクは小瓶を放り投げる。
「二人とも、避けて!」
続いて、その小瓶に向かって拳銃を撃つ。銃弾は小瓶を撃ち抜いて、辺りに乳白色の液体を撒き散らした。
アヴィオールはスピカに覆いかぶさり、頭上に白鳩を旋回させて身を守る。
何の守りもない使用人とワーウルフは、乳白色の飛沫を顔に受けた。
「ぎゃああ!」
使用人とワーウルフは、あまりの痛みに絶叫した。顔を掻き毟り、床をのたうち回り、発狂している。
「早くこっちに!」
サビクに言われ、スピカとアヴィオールは走って二人と合流した。
「あれ何ですか?」
「あいつら、どうなってるんですか?」
子供達の質問に、サビクはへらりと笑って一言。
「ヤバい樹液。太陽の光と反応して、水泡ができるのさ」
「叔父上、お喋りしている暇はありませぬぞ」
グリードは盾を構え、玄関ホールを睨み付ける。
ホールには、傷だらけのリュカの姿、それに従うワーウルフが三人。
リュカは血走った目でアヴィオールを睨んでいた。尋常ではない程の殺気が、彼女から溢れている。
「アヴィ、あなた、彼女に何をしたの?」
リュカが抱いている憎悪があまりにも刺々しくて、スピカはアヴィオールに問いかける。アヴィオールは苦笑いして言った。
「星屑を爆発させた」
「それは……怒るわね、うん」
リュカは歯を剥き出して唸る。ナイフを逆手にかまえ、アヴィオールににじり寄る。
だが、それをグリードが遮った。構えた盾をリュカに向け、メイスを強く握り直す。
「ここは任せて貰おう」
「一人で四人も相手するなんて、無茶じゃないか?」
「何を言いますか。叔父上も共に戦いましょうぞ」
「え? それ本気?」
サビクは乾いた笑いを洩らし、しかし戦えないとも言えないようで、ベストの内側から小瓶を取り出す。中には、あの乳白色の樹液が入っている。
「スピカちゃん、アヴィ君、突っ切って!」
サビクが小瓶を投げた。そして、発砲。
グリードは盾を眼前に構える。
小瓶が弾け、辺りにガラス片と樹液が飛び散る。スピカとアヴィオールは
「白鳩よ!」
アヴィオールが頭上で指を回す。樹液は彼らに降り注ぐことなく、ワーウルフ達に向かって飛んでいく。
ワーウルフ達は樹液の雨に気を取られ、スピカとアヴィオールをみすみす逃がしてしまった。
アヴィオールは、体当たりするように扉を開ける。オレンジの陽光が、宮の中へと差し込んでくる。
スピカとアヴィオールは、眩しさで目を細める。だが、それに構わず、二人は駆け出した。
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