測光観測の末(4)

 その晩、スピカは乙女の宮へと向かった。

 山羊魚やぎの宮に行くことを、スピカはどうしても拒んだ。どうしても乙女の宮がいいとごねたのだ。

 アルゲディが付き添いとなって、スピカを乙女の宮へと送る。使用人やメイドは席を外すようにと、アルゲディは指示を出しておいた。

 寝室に入り、スピカはベッドに腰掛ける。涙はもう出てこない。激しい頭痛のせいで、何も考えることができない。

 アルゲディはスピカの太股に触れた。縛ってあったハンカチを解くと、痛々しい切り傷が顕になる。

 

「消毒するね」


 アルゲディは声をかけ、消毒液を染み込ませた脱脂綿だっしめんを傷口に押し付ける。じわりと痛みが広がり、スピカは目をぎゅっと閉じた。


「俺、嘘をついてたんだ」


 アルゲディが唐突に語り始める。


「列車の中で言ったろ? 乙女の舞に魅せられてるって」


 スピカは列車の中での出来事を思い返す。そういえば、そんなことを言われたかもしれないと。だが、鈍った頭では思い返すことさえ難しく、早々に思考放棄してしまう。


「あれね。半分は嘘」


 消毒が終わり、幅広に切ったガーゼが押し当てられる。スピカにとっては、その感触も不快で仕方ない。足を引っ込めたいところだが、アルゲディの手が膝に乗っていては、逃げようが無い。

 アルゲディは言葉を続ける。


「君が生まれて間もなく、俺は両親と一緒に乙女の宮へ行ったんだ。出産祝いにね。そこで、俺は初めて君に会った。

 頭がおかしいと思われるかもしれないけど、俺は君に惹かれたんだ。こんなに可愛い子、見たことないって」


 太股に包帯が巻かれていく。

 女性の細い太股だ。すぐ終わるだろうに、アルゲディはやけに時間をかけている。


「乙女の舞に魅せられた俺は、君の舞を見たいと思った。

 魔法みたいだった。こんなに焦がれるなんて有り得ないって。だから、この狂った想いは隠してきた。

 君と再会したあの演奏会だって、本当は君だとわかってた。わかってたけど、言えなかった。だからすぐに立ち去ったんだ。ごめんね」


 スピカは双子の宮での演奏会を思い出す。

 演奏が終わるや否や、帰りたいと言い出したアルゲディは、皆に咎められながらも立ち去っていた。

 あれはアルゲディの怠惰たいだではなく、スピカのせいとでも言うのだろうか。


「君を見ると、気が狂いそうになるんだ」


 だから避けていたというのだろうか。

 ならば、何故敵対し、且つ助けようとしているのだろうか。


「君の舞が見たい。これは本当だ。

 君が再びいなくなるのも耐えられない。

 どちらにしても君がいなくなってしまうなら、いっそ君の舞を見て死にたいと、そう思ったんだ」


 医療テープで包帯を止める。きつく巻かれた包帯は、ガーゼをしっかりと押さえつけていた。


「ありがとうございます」


 形式上ではあるが、スピカは礼を言う。アルゲディはにこりと笑った。

 だが、手を離そうとしない。


「私の意思で舞うことは絶対にないです」


「うん、知ってる」


「中身がエウレカでもいいんですか」


「仕方ないよね」


 アルゲディの手つきが不愉快で、スピカはそれを振り払った。


「私の意思なんて、関係ないじゃない」


「そうだよ」


「頭おかしい」


「うん。自覚してる」


「ずっと気持ち悪いの。私にしつこく付きまとって、私に触れようとして。やめてよ」


「できない」


「どうして」


 押し問答の末、沈黙が辺りに流れた。

 目の前の男は確かに敵なのだろう。しかし、スピカを好きだと言う。だが、目的のためなら、スピカの意思はいらないとも言う。


「私、何のためにいるの……」


 枯れ果てたと思っていたのに、涙が再び溢れ出す。

 最初からそうだった。スピカには、エルアの娘という肩書きしかない。それのせいで、追われ、守られている。

 『スピカ』という個人を見てもらえていたことなどあっただろうかと、真っ黒な不安が頭を埋めつくした。


「カオスとか、冬とか、もうどうでもいい。もう何も考えたくないわ」


 アルゲディは再びスピカの膝に手を置いた。もう片方の手でスピカの頬に触れ、にこりと笑う。


「じゃあ、全部投げ出しちゃおうよ。俺は、君が君の意思で踊っているのを見たいな」


「それは……気分が悪くなるから……」


 できないと言いたかった。だが、はっきりと断れなかった。

 心の奥底では、全部なかったことにしてしまいたいと思っていることに気付いた。カオスを呼ぼうが遠ざけようが、自分は死んでしまうのだから。


「こんなめんどくさい世界、全部滅ぼしちゃってさ。楽になろうよ。君に殺されるなら、俺はそれがいいな」


 スピカは揺らいでいた。結果が同じなのであれば、最後は誰かに求められるままに行動してもいいかもしれないと。それが世界を滅ぼす選択だとしても。


 アヴィオールの顔が脳裏に浮かんだ。スピカは目を閉じる。

 いつだってアヴィオールは、スピカの傍に居ることを選んでくれた。乙女の末裔だとか、春待ちの賢者だとか、そういったフィルターを通さず、スピカ自身を見てくれていた。今までそれが当たり前で気づかなかった。


「……駄目だわ、そんなの」


 スピカは呟く。

 アヴィオールを裏切りたくない。彼の隣に立つため、彼に相応ふさわしくありたい。


「スピカ……?」


 アルゲディは首を傾げる。

 スピカはアルゲディの手を叩いた。


「踊らないわ。エウレカに体を譲ることもない」


 スピカは袖で涙を拭う。目は真っ赤に腫れているが、その顔は、情けなく泣くか弱い少女ではなくなっていた。


「死にたくはないけど、あなた達に力を貸すのも真っ平よ。第一、カオスを呼んだら、私もみんなも確実に死んじゃうじゃない」


 打開策があるわけではない。死ななくて良い方法があるわけではない。

 だが、敵の手中に下るのだけは嫌だった。

 アルゲディはそれが面白くない。目を細め、細く長いため息をつく。


「めんどくさ……」


 アルゲディは、蚊の無くような小さな声で呟いたかと思うと、次の瞬間、スピカの口の中へ指を突っ込んだ。

 スピカは突然のことに驚き暴れる。しかし、アルゲディに押し倒され、思うように身動きできない。


「ねえ、頼むよ。言うことを聞いて」


 喉奥に二粒の何かを押し込まれる。喉奥を触られる不快感に抗おうと、スピカはアルゲディの肩を叩き、押し退けようとする。だが体格に差がありすぎて、力が叶わない。


「俺は君の舞以外、他には何もいらないんだ。だから、ね」


 鼻を摘まれ、気道が塞がれる。スピカは暫く暴れていたが、息苦しさに耐えられず潤んだ目でアルゲディを見つめ、言葉にならない声で懇願した。


「息したい? なら飲み込んで」


 口に入れられたものの正体はわからないが、飲み込んではいけないものだということはわかる。息苦しさに耐えた末、スピカは飲み込んだ。それしかなかった。


「いい子」


 口から指が抜かれる。

 大きく息を吸い込んだ瞬間、喉奥の違和感にえずいた。激しく咳き込む。

 起き上がれない程の倦怠感けんたいかんに苛まれ、あまりの吐き気にのたうち回る。胃の中はほぼ空っぽなのだから、何も出てくるはずがない。

 輝術の光を浴びた時に似ている。嘔吐感おうとかん倦怠感けんたいかん、視界は揺れ、ぼやけていく。


「輝術を体内に入れるのって、キツいでしょ?」


 抑揚のないアルゲディの声が聞こえる。

 スピカはお腹を抱え、意識を手放さないようにと必死で堪えていた。ここで気絶してはいけない。


「苦しいでしょ? 言うこと聞いてくれるなら、柘榴水持ってくるよ」


 スピカは歯を食いしばり、アルゲディの顔を睨み上げる。口を開けば嘔吐おうとしそうで、恨み言を口にすることができない。


「残念だなあ。俺は君を守ってあげたのに」


 やがて視界は完全な闇に塗りつぶされ、スピカはきつく目を閉じた。意識は辛うじて現実にしがみついているが、どれ程もつかわからない。


「何、飲ませたの……?」


 スピカがえずきながら問うと、アルゲディは答えた。


「カプセルだよ」


「え……?」


「ネクタルのワインを入れたカプセル。乙女の体には辛いんだよね?」


 輝術により作られたワインとなれば、乙女の体には毒だろう。現にスピカは途切れない吐き気に涙を零している。

 髪を梳かれる。触られるのを避けて身を捩る。


「寝てるうちに全部終わるからね」


 気を失ってはいけない。ひたすらに耐える。

 

 意識がどれ程沈もうと。

 思考がどれ程薄れようと。


「アヴィ……」


 想い人の名を呟いて、ただひたすらに意識を手繰り寄せていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る